◎罪の重い人間が仏になる
本来もなき古(いにしえ)の我なれば
死に行く方も何もかもなし
(一休)
禅門では、父母が生まれる以前の自分はどれかとか、見たこともないことについて無理な質問をしかける。その自分が本来の自分であるなどと講釈を垂れることもあるが、ここでいう本来の自分は、ここから来ている。
本来の自分とは、本尊のことでありアートマンのことである。
本来の自分を本来の位置で感得するには、意識を清明に持ち、意識レベルを低下させねばならない、とか言っている自分が残っているうちには、「本来もなきいにしえの我」には出会えない。
本来もなきいにしえの我をグリップして初めて、死んでいく方向もなにもかもないと言える。
またある人が言うに「毒薬は変じて薬になるという。だから罪の重い人間が仏になるのだろうか」と。
わりとそうかもしれない。地獄とは罪の多い人間が行くところ。この時代こそ地獄が現前しているとは一休の認識だからである。
地獄が深いほど、後の天国は高い。
本来もなき古(いにしえ)の我なれば
死に行く方も何もかもなし
(一休)
禅門では、父母が生まれる以前の自分はどれかとか、見たこともないことについて無理な質問をしかける。その自分が本来の自分であるなどと講釈を垂れることもあるが、ここでいう本来の自分は、ここから来ている。
本来の自分とは、本尊のことでありアートマンのことである。
本来の自分を本来の位置で感得するには、意識を清明に持ち、意識レベルを低下させねばならない、とか言っている自分が残っているうちには、「本来もなきいにしえの我」には出会えない。
本来もなきいにしえの我をグリップして初めて、死んでいく方向もなにもかもないと言える。
またある人が言うに「毒薬は変じて薬になるという。だから罪の重い人間が仏になるのだろうか」と。
わりとそうかもしれない。地獄とは罪の多い人間が行くところ。この時代こそ地獄が現前しているとは一休の認識だからである。
地獄が深いほど、後の天国は高い。