◎真の聖者
釈迦の説く他人とのかかわり方は、以下のようなスッタニパータにみられるが、その姿は孤高であり。絶対的な孤独の影が差している。
勤勉であり、慎重であり、道心堅固なのだが、その姿は、戦後の新興?宗教の教祖に見られた、金満で、人格者で、周囲の取り巻きにより近寄りがたく、政治好きで、ファッショナブルで贅沢な私生活で、艶福家という姿ではない。
二度の食事は、信者からもらったものであり、少々腐ったり、量が少ないことにも文句を垂れない。そして生活スタイルの基本は、冥想であること。
『213 独り歩み、怠ることのない聖者、非難と賞讃とに心を動かさず、音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、他人に導かれることなく、他人を導く人、──諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。
214 他人がことばを極めてほめたりそしったりしても、水浴場における柱のように泰然とそびえ立ち、欲情を離れ、諸々の感官をよく静めている人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
215 梭のように真直ぐにみずから安立し、諸々の悪い行為を嫌い、正と不正とをつまびらかに考察している人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
216 自己を制して悪をなさず、若いときでも、中年でも、聖者は自己を制している。かれは他人に悩まされることなく、また何びとをも悩まさない。諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
217 他人から与えられたもので生活し、[容器の]上の部分からの食物、中ほどからの食物、残りの食物を得ても、(食を与えてくれた人を)ほめることなく、またおとしめて罵ることもないならば、諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
218 婬欲の交わりを断ち、いかなるうら若き女人にも心をとどめず、驕りまたは怠りを離れ、束縛から解脱している聖者──かれを諸々の賢者は(真の)<聖者>であると知る。』
(ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)p48-49から引用)
釈迦の時代は聖者は、リーダーとして存在していたが、21世紀には聖者は、低所得で質素な生活の友人として登場する。
釈迦の説く他人とのかかわり方は、以下のようなスッタニパータにみられるが、その姿は孤高であり。絶対的な孤独の影が差している。
勤勉であり、慎重であり、道心堅固なのだが、その姿は、戦後の新興?宗教の教祖に見られた、金満で、人格者で、周囲の取り巻きにより近寄りがたく、政治好きで、ファッショナブルで贅沢な私生活で、艶福家という姿ではない。
二度の食事は、信者からもらったものであり、少々腐ったり、量が少ないことにも文句を垂れない。そして生活スタイルの基本は、冥想であること。
『213 独り歩み、怠ることのない聖者、非難と賞讃とに心を動かさず、音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、他人に導かれることなく、他人を導く人、──諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。
214 他人がことばを極めてほめたりそしったりしても、水浴場における柱のように泰然とそびえ立ち、欲情を離れ、諸々の感官をよく静めている人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
215 梭のように真直ぐにみずから安立し、諸々の悪い行為を嫌い、正と不正とをつまびらかに考察している人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
216 自己を制して悪をなさず、若いときでも、中年でも、聖者は自己を制している。かれは他人に悩まされることなく、また何びとをも悩まさない。諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
217 他人から与えられたもので生活し、[容器の]上の部分からの食物、中ほどからの食物、残りの食物を得ても、(食を与えてくれた人を)ほめることなく、またおとしめて罵ることもないならば、諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
218 婬欲の交わりを断ち、いかなるうら若き女人にも心をとどめず、驕りまたは怠りを離れ、束縛から解脱している聖者──かれを諸々の賢者は(真の)<聖者>であると知る。』
(ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)p48-49から引用)
釈迦の時代は聖者は、リーダーとして存在していたが、21世紀には聖者は、低所得で質素な生活の友人として登場する。