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絶望からの信仰は正しい態度ではない

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◎生活上の不安の少ない人たち

イエスも釈迦も在世中の教団は貧しくて、貧乏人、窮迫者にも説教していたので、しばしば生活困窮者のための心理的自己満足のあり方が宗教だ、信心だなどと誤解されやすい。

その一方で、イエスの荒野の断食40日とか、出口王仁三郎の高熊山の断食一週間とか、食べるものも何もない状態が、驚きの目で強調されがちなので、そのような絶望的な状態でも平常心で神仏を確証できているのが宗教者のあり方だなどと思われがちなものである。

だからこそダライラマは、わりと豊かな生活をしている人の無宗教的生活態度をとがめる。

『絶望からの信仰は正しい態度ではない


ところが、今日、物質的に恵まれない人々に信仰心の篤い人が多く見られ、
豊かな人々があまり宗教を顧みないと思われる場合が多々ある。そこで、信仰心、宗教的献身と物質について考えてみよう。

貧しい人々、しいたげられた人々が宗教に帰依するとき、純粋な信仰心からというよりも絶望から身を信仰に捧げる場合がある。これは正しい態度だとは言えない。

もし、あなたがたいへん貧しく、物質的にひじょうに窮乏しているにもかかわらず、『私は満たされている』と言うのは奇妙だろう。まるで何も持たずに、すべて所有していると信じるのは愚かだろう。あなたが今、現在、その手のうちに所有するものが不足していて、より多くのものを望む、その望むことの中に信仰の意味を見出しているなら、あなたの信仰とは、それが満たされている状態のことである。

あなたがまだ物質的な充足の限界を知らない、信心の限界も、宗教的な献身の限界も、心的世界の限界も知らない、それこそが正しい状態だと言えるだろう。』
(ダライ・ラマ「死の謎」を説く 輪廻転生-生命の不可思議 14世ダライ・ラマ/著 クレスト社P130から引用)

ハタ・ヨーガの最終的狙いは、ラージャ・ヨーガクリヤ・ヨーガであるように、冥想修行者にとって日々の安定したペースでの衣食住と肉体の健康と快適さは基本である。できれば専門道場のように働かなくとも食べられる環境が良いのだろうが、誰もがそのような場所で修業できるわけではない。

一木一草百均の一商品、一滴の水ですらも無駄に使わない。生死事大、人間の寿命はいつ突然に終わるかもしれないので、一瞬一刻をもゆるがせにせず、時を惜しんで使う。自分のために物事を費やすときには自分があってはいけない。等々、冥想修業は、フランクで真摯で快活な中に、細かく守っているルールがあるもので、それは他人の目からは見えにくいし、他人に披歴するようなものでもない。

物質的窮乏のない環境にあって、さらに豊かな他人と比較するのは、妬みそねみが根底にあるものだ。不足していることを憂えずというのは、折れた椅子の足を縄で縛って使っていた禅僧趙州を引くまでもなく基本的姿勢だ。

この引用文の標題は、貧しい人がターゲットではあるが、豊かな人もターゲットになっている。


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