◎自分の心もあらゆる宇宙も忘却してしまう
黄檗禅師伝心法要では、自分と自分以外のあらゆる宇宙を区別する。「心」が自分で「境」が自分以外のあらゆる宇宙。現代語訳では、「心」が主観で「境」が客観と訳していることがあるが、それでわかる人はよいが、わからない人も多いだろう。
黄檗は、求道には自分の心から入る方向と自分の外なるものから入る方向があるとする。
凡人は、外をなんとかしようと思うが、何とかなるものではない。一方求道者は自分の心の方をなんとかしようとするが、こちらの方がよりイージーな道である。
自分の心も外側も忘れたところにアートマンがあるが、そこに至る秘訣は、心にひとかけらのものもないことであると。これを「心を忘ず」、「心を除く」という。
あらゆる存在と宇宙について、有無の区別をしなければ、法を見ることができる(大悟)。
『修行者が修行のしかたの秘訣を知りたいというなら、それは心に一物をも付着させるなということに尽きる。
(中略)
仏と人間との間に異なった相はない。
生死と涅槃との間に異なった相はない。煩悩と菩提との間に異なった相はない。一切の相から離れてあるもの、それが仏である。
凡夫は境(外的対象)を選びとる。しかし道人はおのれの心を選びとる。その心も境もともに忘却してしまう、となってはじめて真の法である。
境を忘却することはまだしも易いが、心を忘却する(心を空ならしめる)ことは至難の業である。
世人はなかなか心を忘却しきれない。と
いうのは、虚無に落ちこんで取っかかりが失われてしまうのではないかと恐れるからだ。
あに計らんや、空にはもともと虚無なるものはなく、あるのは万有あるがままの理法の世界一つだけである。』
(禅家語録Ⅰ 世界古典文学全集/筑摩書房P270から引用)
黄檗禅師伝心法要では、自分と自分以外のあらゆる宇宙を区別する。「心」が自分で「境」が自分以外のあらゆる宇宙。現代語訳では、「心」が主観で「境」が客観と訳していることがあるが、それでわかる人はよいが、わからない人も多いだろう。
黄檗は、求道には自分の心から入る方向と自分の外なるものから入る方向があるとする。
凡人は、外をなんとかしようと思うが、何とかなるものではない。一方求道者は自分の心の方をなんとかしようとするが、こちらの方がよりイージーな道である。
自分の心も外側も忘れたところにアートマンがあるが、そこに至る秘訣は、心にひとかけらのものもないことであると。これを「心を忘ず」、「心を除く」という。
あらゆる存在と宇宙について、有無の区別をしなければ、法を見ることができる(大悟)。
『修行者が修行のしかたの秘訣を知りたいというなら、それは心に一物をも付着させるなということに尽きる。
(中略)
仏と人間との間に異なった相はない。
生死と涅槃との間に異なった相はない。煩悩と菩提との間に異なった相はない。一切の相から離れてあるもの、それが仏である。
凡夫は境(外的対象)を選びとる。しかし道人はおのれの心を選びとる。その心も境もともに忘却してしまう、となってはじめて真の法である。
境を忘却することはまだしも易いが、心を忘却する(心を空ならしめる)ことは至難の業である。
世人はなかなか心を忘却しきれない。と
いうのは、虚無に落ちこんで取っかかりが失われてしまうのではないかと恐れるからだ。
あに計らんや、空にはもともと虚無なるものはなく、あるのは万有あるがままの理法の世界一つだけである。』
(禅家語録Ⅰ 世界古典文学全集/筑摩書房P270から引用)