◎をのずからこころよきもの也
利休(宗易)が客と亭主の心の持ちようについて、『かなうは善し、かないたがるは悪し』と語っている。
ただこれには前提があって、客も亭主も大悟を経ていることが前提である。金銭欲も物欲(茶器の名物など)も淫欲もそのままの俗人同士が茶会を催しても、お互いにかないたがるばかりで一向に整うことはない。
ただ、かないたがることは相互への愛の兆しであり、いつかかなうことがあり得る。
また、かないたがることは、かなうことへの前段であり、かなえばまたかなわぬことにいつか変わっていく。
茶事に限らず、恋愛、魂の伴侶なども、かなおうとせず、すでにかなっているのがよろしい。
南坊録覚書から
『客亭主、互の心もち、いかやうに得心してしかるべきやと問。
易の云、いかにも互の心にかなふがよし。しかれどもかないたがるはあしし。
得道の客亭主なれば、をのずからこころよきもの也。
未煉の人互に心にかなはうとのみすれば、一方、道にちがへばともどもにあやまちする也。
さればこそ、かなふはよし、かないたがるはあしし。』
利休(宗易)が客と亭主の心の持ちようについて、『かなうは善し、かないたがるは悪し』と語っている。
ただこれには前提があって、客も亭主も大悟を経ていることが前提である。金銭欲も物欲(茶器の名物など)も淫欲もそのままの俗人同士が茶会を催しても、お互いにかないたがるばかりで一向に整うことはない。
ただ、かないたがることは相互への愛の兆しであり、いつかかなうことがあり得る。
また、かないたがることは、かなうことへの前段であり、かなえばまたかなわぬことにいつか変わっていく。
茶事に限らず、恋愛、魂の伴侶なども、かなおうとせず、すでにかなっているのがよろしい。
南坊録覚書から
『客亭主、互の心もち、いかやうに得心してしかるべきやと問。
易の云、いかにも互の心にかなふがよし。しかれどもかないたがるはあしし。
得道の客亭主なれば、をのずからこころよきもの也。
未煉の人互に心にかなはうとのみすれば、一方、道にちがへばともどもにあやまちする也。
さればこそ、かなふはよし、かないたがるはあしし。』