◎クンダリーニ・ヨーガは表
ダンテス・ダイジのさる高弟へのアドバイスから(続)。
『摩可般若心経 表版 (クンダリーニ ヨーガ)
苦あるが故に不可知あり、不可知あるが故に 多様多元の全体者 ここに目覚めている。 中心が多様多元として 現れているが故に 中心自身の目覚めは 大いなる 空の戯れとして戯れている。 』
ここでは、不可知は苦の対極ではなく、苦でも楽でもない別次元として到来していると見る。苦も有の世界。有の世界から眼を背けないまま、死をも生をも包含して、見た場合、そこに不可知があるということなのだろう。
その不可知こそ、多様多元の多様多元の全体者が目覚めていることだとする。
ここで既に個の視点はないが、宇宙の中心自身の目覚めこそが、大いなる空の戯れという、世界遊戯、リーラという、時間も空間も物質も含めた転変化々する現象世界の夢幻性を自証している。
はて、どうしてこれが表版なのだろうか。
ダンテス・ダイジのさる高弟へのアドバイスから(続)。
『摩可般若心経 表版 (クンダリーニ ヨーガ)
苦あるが故に不可知あり、不可知あるが故に 多様多元の全体者 ここに目覚めている。 中心が多様多元として 現れているが故に 中心自身の目覚めは 大いなる 空の戯れとして戯れている。 』
ここでは、不可知は苦の対極ではなく、苦でも楽でもない別次元として到来していると見る。苦も有の世界。有の世界から眼を背けないまま、死をも生をも包含して、見た場合、そこに不可知があるということなのだろう。
その不可知こそ、多様多元の多様多元の全体者が目覚めていることだとする。
ここで既に個の視点はないが、宇宙の中心自身の目覚めこそが、大いなる空の戯れという、世界遊戯、リーラという、時間も空間も物質も含めた転変化々する現象世界の夢幻性を自証している。
はて、どうしてこれが表版なのだろうか。