◎それを掘りにいくのは、気がついた人だけ
光は、物質ではない。旧約聖書で神は光あれといい、OSHOバグワンは悟りのことを光明を得ると呼ぶ(エンライトゥンメント)。
人は暗闇に入っていって冥想すると内なる光が見え始め、見える。人間には飛び魚型水平飛行と垂直飛行があることは、古代ギリシアの昔から知られている。水平飛行とは、カルマを漫然と消化する生き方であり、常に意識下に死の恐怖を携えて行く生き方。
OSHOバグワンは、垂直飛行には二種あって、上昇と下降があるとする。上昇は、バクティ(愛と献身)の道であり、下降は知性の道だが、どの道を通っても不死の領域に到達すれば、必ず光を発見すると言う。
その光の根源、光源に入ることを沐浴と呼ぶ。沐浴とは、西洋錬金術でも内丹書でも勘所に出てくる重要なキーワード。
知性の道では、ロジックと散文で求道しつつ下降し続け根っこに至る。だから神などという根っこそのものを指し示すテクニカル・タームなどいらない。一方バクティの道ではあふれる熱情を捧げる対象が必ず必要になるので、「神」は上昇目標として絶対的に登場する。
(参照:究極の錬金術/OSHO/P340-356)
この本は、知性で下降するウパニシャッドの解説本。だが、OSHOバグワンは、このようにあらゆる秘教のキーポイントを惜しげもなく、かつ全く関係のなさそうなところ(ウパニシャッド)で言及してくれる。また出来の悪い講話録の中でも一行だけ光を放つ言葉があったりする。
そういう語り口は、真摯な求道者にとっては、自分に対してちゃんと向き合ってくれていないとか、組織宗教の師としては真面目ではないのではないかという疑念を抱かせるに十分なものかもしれない。だが、師は水辺に連れて行ってくれるのかもしれないが、水を飲むのは自分自身だとわかっていれば、それを咎めることもないだろう。
山道に草木に隠された黄金の鉱脈の断片をみつけて、それを掘りにいくのは、気がついた人だけなのだ。
光は、物質ではない。旧約聖書で神は光あれといい、OSHOバグワンは悟りのことを光明を得ると呼ぶ(エンライトゥンメント)。
人は暗闇に入っていって冥想すると内なる光が見え始め、見える。人間には飛び魚型水平飛行と垂直飛行があることは、古代ギリシアの昔から知られている。水平飛行とは、カルマを漫然と消化する生き方であり、常に意識下に死の恐怖を携えて行く生き方。
OSHOバグワンは、垂直飛行には二種あって、上昇と下降があるとする。上昇は、バクティ(愛と献身)の道であり、下降は知性の道だが、どの道を通っても不死の領域に到達すれば、必ず光を発見すると言う。
その光の根源、光源に入ることを沐浴と呼ぶ。沐浴とは、西洋錬金術でも内丹書でも勘所に出てくる重要なキーワード。
知性の道では、ロジックと散文で求道しつつ下降し続け根っこに至る。だから神などという根っこそのものを指し示すテクニカル・タームなどいらない。一方バクティの道ではあふれる熱情を捧げる対象が必ず必要になるので、「神」は上昇目標として絶対的に登場する。
(参照:究極の錬金術/OSHO/P340-356)
この本は、知性で下降するウパニシャッドの解説本。だが、OSHOバグワンは、このようにあらゆる秘教のキーポイントを惜しげもなく、かつ全く関係のなさそうなところ(ウパニシャッド)で言及してくれる。また出来の悪い講話録の中でも一行だけ光を放つ言葉があったりする。
そういう語り口は、真摯な求道者にとっては、自分に対してちゃんと向き合ってくれていないとか、組織宗教の師としては真面目ではないのではないかという疑念を抱かせるに十分なものかもしれない。だが、師は水辺に連れて行ってくれるのかもしれないが、水を飲むのは自分自身だとわかっていれば、それを咎めることもないだろう。
山道に草木に隠された黄金の鉱脈の断片をみつけて、それを掘りにいくのは、気がついた人だけなのだ。