◎クリヤ・ヨーガへ
日本の禅文化の草分けである夢窓国師。鎌倉の建長寺で、若い夢窓に対し先輩僧の語った言葉(西山夜話)。
「古人が悟った時の言葉を読むのは、あくまで修行者に学ばせて悟りに導こうとするもの。ところが今は書かれた人の評判を信じて名誉欲や金銭欲のネタにする者が多い。あるいは自分のことを道人と称しながら、先輩に学ばず、禅語録を読まず、ただぼんやりと坐禅ばかりする者がいる。どちらの人々も禅語録が残されている理由を知らないからだ。今は末法の世で正師は稀である。せめて求道の志を励まして禅語録を読めば、古人の悟りのきっかけが、現代人の悟りのきっかけである。古今で違いのあろうはずはない。」
禅でも坐禅だけひたすらやっていればよいという主張と経典を読んだり禅語録を読んだりすることも必要だという論争が昔からあったものだ。
ヨーガも然り。最近流行のヨーガは、アメリカンなものも多いが、ヨーガ・スートラを全然読まないヨーガ教室も多いのだろう。
ヨーガ・スートラと言えば、インド哲学分類であって難解という形容詞もある。それは全然哲学ではなくて、人が神に成るためのプロセスとテクニック。釈迦は、ハタ・ヨーガからクリヤ・ヨーガに亘るインド宗教の伝統を踏まえて出てきたのであって、仏教だけインド宗教から独立しているものではない。ハタ・ヨーガは仏教と無関係とは言えない。
ハタ・ヨーガの資格を取るにあたり、本来ヨーガ・スートラの知的理解は必須だと思う。
ところが、ヨーガ・スートラの和訳と言えば、昔は佐保田鶴治本くらいしかなくて、同氏の解説本もあったが、仏教用語がちりばめられて、さっぱり理解できなかった。
最近は、「現代人のためのヨーガ・スートラ/ゴール・メーレ/ガイアブックス」、「ヨーガ・スートラ パタンジャリ哲学の精/ヴィディヤーランカール/東方出版」なども出てきて解説もついており、少しはましになったが、依然としてニルヴァーナへの道程がわかりやすいとはいえない。
私は、OSHOバグワンの“Yoga: The Alpha and the Omega”がわかりやすいと思う(“Yoga: The Alpha and the Omega PDF”でググるとヒットする)が、和訳はされていない。
ヨーガ・スートラの理解がなければ、ハタ・ヨーガで身体的健康は得られるかもしれないが、人間としての根本的、苦悩、無力感、孤独、絶望への解は出てこないのではないか。せっかく片手がかかっているのに残念なことである。
日本の禅文化の草分けである夢窓国師。鎌倉の建長寺で、若い夢窓に対し先輩僧の語った言葉(西山夜話)。
「古人が悟った時の言葉を読むのは、あくまで修行者に学ばせて悟りに導こうとするもの。ところが今は書かれた人の評判を信じて名誉欲や金銭欲のネタにする者が多い。あるいは自分のことを道人と称しながら、先輩に学ばず、禅語録を読まず、ただぼんやりと坐禅ばかりする者がいる。どちらの人々も禅語録が残されている理由を知らないからだ。今は末法の世で正師は稀である。せめて求道の志を励まして禅語録を読めば、古人の悟りのきっかけが、現代人の悟りのきっかけである。古今で違いのあろうはずはない。」
禅でも坐禅だけひたすらやっていればよいという主張と経典を読んだり禅語録を読んだりすることも必要だという論争が昔からあったものだ。
ヨーガも然り。最近流行のヨーガは、アメリカンなものも多いが、ヨーガ・スートラを全然読まないヨーガ教室も多いのだろう。
ヨーガ・スートラと言えば、インド哲学分類であって難解という形容詞もある。それは全然哲学ではなくて、人が神に成るためのプロセスとテクニック。釈迦は、ハタ・ヨーガからクリヤ・ヨーガに亘るインド宗教の伝統を踏まえて出てきたのであって、仏教だけインド宗教から独立しているものではない。ハタ・ヨーガは仏教と無関係とは言えない。
ハタ・ヨーガの資格を取るにあたり、本来ヨーガ・スートラの知的理解は必須だと思う。
ところが、ヨーガ・スートラの和訳と言えば、昔は佐保田鶴治本くらいしかなくて、同氏の解説本もあったが、仏教用語がちりばめられて、さっぱり理解できなかった。
最近は、「現代人のためのヨーガ・スートラ/ゴール・メーレ/ガイアブックス」、「ヨーガ・スートラ パタンジャリ哲学の精/ヴィディヤーランカール/東方出版」なども出てきて解説もついており、少しはましになったが、依然としてニルヴァーナへの道程がわかりやすいとはいえない。
私は、OSHOバグワンの“Yoga: The Alpha and the Omega”がわかりやすいと思う(“Yoga: The Alpha and the Omega PDF”でググるとヒットする)が、和訳はされていない。
ヨーガ・スートラの理解がなければ、ハタ・ヨーガで身体的健康は得られるかもしれないが、人間としての根本的、苦悩、無力感、孤独、絶望への解は出てこないのではないか。せっかく片手がかかっているのに残念なことである。