◎やすらぎ或いは中道
世の中には快楽を求める人がある一方で、自分がさいなまれることを好む人もいる。
他人を責めたりさいなんだりすることを快楽として好む人もいる。これは、世の中のあらゆるいじめとサディズムであって、世の中のありとあらゆる場所で見かけるもの。家庭から社会まであらゆる組織の中の上方や、政治家なら権力者、カルトなら教祖としてよくいる方。
一方で他人からちょっといじられることを好む人や他人から責めさいなまれることを内心好む人も多い。これは、苦しむのもまんざらではないという一種マゾヒズム的気分から来るものであって、酒飲みの心理の一面でもある。
さて真の幸福を求める人は冥想修行者、求道者ではある。ところが、世間で幸福を求めるということは、隣人や同僚や知り合いよりリッチになったり成績上位になったり、名誉を得たりすることなどである。ところがこれらは、大きく見れば、他人から奪ったり、他人を押しのけたりする結果であって、サディズムのようなものである。
こうした両方の心理を見て、釈迦は中道がよいと言った※。中道とは最終的に、法華経で見るように、蓮の花に諸仏が居まくったり、黄金、宝石でできた世界に永遠に暮らすことであって、衣食住に不自由しないどころではない世界である。
(※世界古典文学全集仏典ⅠP66/経典のことば/中道)
そういう世界に往生できるようにと、何の迷いも衒いもなくそれに進める人はよい。
中道優先で、快楽追及も、苦患を喜ぶことをせず、日々行動を謹んで、地味に暮らすことはよいが、そういう人生は多分どこかでおそろしくつまらないと感じる時があるのではないか。
釈迦は、中道とは、サドにもマゾに振れないやすらぎだとも言うが、最初からやすらぎを求める気分になっている人は、実はそんなに多くもないのではないかとも思う。
やすらぎとはニルヴァーナのことではない。やすらぎもあって、不条理、理不尽もあるが、人間には耐えられない出来事は起こらないということもある。人はそれらをわきまえて、無数の道を経由して、ニルヴァーナを目指すのだろう。
世の中には快楽を求める人がある一方で、自分がさいなまれることを好む人もいる。
他人を責めたりさいなんだりすることを快楽として好む人もいる。これは、世の中のあらゆるいじめとサディズムであって、世の中のありとあらゆる場所で見かけるもの。家庭から社会まであらゆる組織の中の上方や、政治家なら権力者、カルトなら教祖としてよくいる方。
一方で他人からちょっといじられることを好む人や他人から責めさいなまれることを内心好む人も多い。これは、苦しむのもまんざらではないという一種マゾヒズム的気分から来るものであって、酒飲みの心理の一面でもある。
さて真の幸福を求める人は冥想修行者、求道者ではある。ところが、世間で幸福を求めるということは、隣人や同僚や知り合いよりリッチになったり成績上位になったり、名誉を得たりすることなどである。ところがこれらは、大きく見れば、他人から奪ったり、他人を押しのけたりする結果であって、サディズムのようなものである。
こうした両方の心理を見て、釈迦は中道がよいと言った※。中道とは最終的に、法華経で見るように、蓮の花に諸仏が居まくったり、黄金、宝石でできた世界に永遠に暮らすことであって、衣食住に不自由しないどころではない世界である。
(※世界古典文学全集仏典ⅠP66/経典のことば/中道)
そういう世界に往生できるようにと、何の迷いも衒いもなくそれに進める人はよい。
中道優先で、快楽追及も、苦患を喜ぶことをせず、日々行動を謹んで、地味に暮らすことはよいが、そういう人生は多分どこかでおそろしくつまらないと感じる時があるのではないか。
釈迦は、中道とは、サドにもマゾに振れないやすらぎだとも言うが、最初からやすらぎを求める気分になっている人は、実はそんなに多くもないのではないかとも思う。
やすらぎとはニルヴァーナのことではない。やすらぎもあって、不条理、理不尽もあるが、人間には耐えられない出来事は起こらないということもある。人はそれらをわきまえて、無数の道を経由して、ニルヴァーナを目指すのだろう。