◎腕時計、スマホの時刻表示
人間は時代が改まるにつれ、時間について意識的になった。2000年位前は、1日は12時だった。当時腕時計を持っていたら、その目盛は12しかなかった。だから禅僧趙州の十二時の詩とは、一日のことだ。
時間をあまり意識しないというということは、無意識にであるにせよ、全体と人間は相当につながっていたということである。
人間が時間を意識する道具として腕時計がある。江戸時代は大名時計のような大型のものがせいぜいで、懐中時計や腕時計になったのは、兵隊が軍用で装着した20世紀になってからが本格的と言えるだろう。
当然そうした腕時計には秒針がついており、人は秒針を見ながら想念の動きが時間とともに流れていることを知る。それは転々として変わりゆく想念の一つ一つのシーンが意識化されるということが、日常的に繰り返されるということ。
これは人間意識の極大化をサポートする事象でもあり、自意識の肥大化の証左でもある。
人間は文明化により、時間を短縮してきた。炊飯は、ついこの間まで薪を集めて、水を汲んできて、米を研いで、火にかけて、その間ずっと火の加減を見ていなければならなくて、それだけで半日仕事と言ってもいいくらいだったのではないか。これがせいぜい40分とかで終わるようになった。
そして東海道五十三次。53泊かかった道程を、今はのぞみで2時間半で通過することができるようになった。
そのように人間は過去数千年間できなかった時間の短縮を可能にして現実のものとして見せた。
こうして人間は食うためについやしてきた時間をどんどん短縮し、自分の自由になる時間をどんどん増やしてきた。その一方で、人間は自分の時間意識の発達に伴って、自意識・自分の想念の意識化をより稠密にやるようになってきた。
さらに人間か過去数万年できなかったことを日常的に成し遂げている自信から、自分にはこれ以上の遥かにビッグなことができる可能性があるのに成し遂げていないという、いまひとつ感を感じている。
また過去何生もかけてできなかったことが、この生で実現できるかもしれないという潜在的な自信をも持つに至っているのだ。
その自信がやがて自分を絶望に追い落とす。
禅僧南直哉さんのブログに警策も怒声もない道場で修行した思い出を書いてあった。
そこはとても小さな道場だったが、修行したい人が修行したい期間集まっていて、修行に必要なルールは守られ、イヤになった者はいつのまにかいなくなったそうだ。
暴力とか罵声とかそんなことがマスコミで大きく取り上げられるが、肥大した自意識をコントロールできない者同士で、議論してもいい知恵は出るまい。まずは、そうした極めてノーマルな仲間同士があつまって、普通に修行の場を作って行こうとすればそうした姿に自然になっていくはずなのだが。
ただしそうした場は、現代においては概ね金が不足気味になるものだ。
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悟りとは何か
人間は時代が改まるにつれ、時間について意識的になった。2000年位前は、1日は12時だった。当時腕時計を持っていたら、その目盛は12しかなかった。だから禅僧趙州の十二時の詩とは、一日のことだ。
時間をあまり意識しないというということは、無意識にであるにせよ、全体と人間は相当につながっていたということである。
人間が時間を意識する道具として腕時計がある。江戸時代は大名時計のような大型のものがせいぜいで、懐中時計や腕時計になったのは、兵隊が軍用で装着した20世紀になってからが本格的と言えるだろう。
当然そうした腕時計には秒針がついており、人は秒針を見ながら想念の動きが時間とともに流れていることを知る。それは転々として変わりゆく想念の一つ一つのシーンが意識化されるということが、日常的に繰り返されるということ。
これは人間意識の極大化をサポートする事象でもあり、自意識の肥大化の証左でもある。
人間は文明化により、時間を短縮してきた。炊飯は、ついこの間まで薪を集めて、水を汲んできて、米を研いで、火にかけて、その間ずっと火の加減を見ていなければならなくて、それだけで半日仕事と言ってもいいくらいだったのではないか。これがせいぜい40分とかで終わるようになった。
そして東海道五十三次。53泊かかった道程を、今はのぞみで2時間半で通過することができるようになった。
そのように人間は過去数千年間できなかった時間の短縮を可能にして現実のものとして見せた。
こうして人間は食うためについやしてきた時間をどんどん短縮し、自分の自由になる時間をどんどん増やしてきた。その一方で、人間は自分の時間意識の発達に伴って、自意識・自分の想念の意識化をより稠密にやるようになってきた。
さらに人間か過去数万年できなかったことを日常的に成し遂げている自信から、自分にはこれ以上の遥かにビッグなことができる可能性があるのに成し遂げていないという、いまひとつ感を感じている。
また過去何生もかけてできなかったことが、この生で実現できるかもしれないという潜在的な自信をも持つに至っているのだ。
その自信がやがて自分を絶望に追い落とす。
禅僧南直哉さんのブログに警策も怒声もない道場で修行した思い出を書いてあった。
そこはとても小さな道場だったが、修行したい人が修行したい期間集まっていて、修行に必要なルールは守られ、イヤになった者はいつのまにかいなくなったそうだ。
暴力とか罵声とかそんなことがマスコミで大きく取り上げられるが、肥大した自意識をコントロールできない者同士で、議論してもいい知恵は出るまい。まずは、そうした極めてノーマルな仲間同士があつまって、普通に修行の場を作って行こうとすればそうした姿に自然になっていくはずなのだが。
ただしそうした場は、現代においては概ね金が不足気味になるものだ。


悟りとは何か