◎未悟の者たちの杖
修道院できっちり修道生活をして3か月もすれば神を見るという。
午前2時ごろには起床して、日没に至るまで七つに分けられた聖務日課をこなしていく。聖務日課とは、詩篇や聖歌の合唱や神の読書、祈祷など。
いわば一日中断続的に聖務日課を行っていくのだ。この合間に食事や労働がある。そんな生活ができるならば、3か月で神を見るというのはあながち嘘ではあるまい。
こんな生活は俗人にはできない。通勤も入れれば、起きている時間の7割以上を労働に振り向け、残りの時間を食事と風呂裂いて、そのまた残ったわずかな時間で冥想すれば、スマホやPCやテレビに向かう時間はほとんど残っていない。
ただし未悟の俗人でも、目が覚めている時間全体を神に向かうために有効に使用するメソッドがある。それが戒律である。
未だ神知らぬ身には、何が聖で何が俗かわからない。何が正で何が邪かわからない、何が善で何が悪かわからない。
でも戒律を守って行動していけば、悪の側に落ちることは少ない。
しかし人間は変わった。中世以前は、正統的組織宗教に所属して戒律を守れば、大概良しとされた。いわば形をメインと考えていた時代であって、誰もが大悟する必要は切羽っ詰まっていなかった。
今は内実そのものが問われる時代で、かつては宗教組織が規制していた戒律を自分が自ら課して、それをそのまま生きることを求められている時代。
言うまでもないが未見神の者と、既に見神した者にとっての戒律の位置は異なる。しかしその戒律の中身は、服従、清貧、童貞(純潔)であって、自分というものを小さく少なくしていこうという方向性のものである。
いまの時代は、謙遜を破壊しがちな社会制度と通念が隆盛であるからこそ、自分の気に入った戒律でもって自分を律していかないと、自分がつぶれてしまう。
ベネディクト戒律だけでなく、禅の清規、功過格なども戒律の一種。
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悟りとは何か
修道院できっちり修道生活をして3か月もすれば神を見るという。
午前2時ごろには起床して、日没に至るまで七つに分けられた聖務日課をこなしていく。聖務日課とは、詩篇や聖歌の合唱や神の読書、祈祷など。
いわば一日中断続的に聖務日課を行っていくのだ。この合間に食事や労働がある。そんな生活ができるならば、3か月で神を見るというのはあながち嘘ではあるまい。
こんな生活は俗人にはできない。通勤も入れれば、起きている時間の7割以上を労働に振り向け、残りの時間を食事と風呂裂いて、そのまた残ったわずかな時間で冥想すれば、スマホやPCやテレビに向かう時間はほとんど残っていない。
ただし未悟の俗人でも、目が覚めている時間全体を神に向かうために有効に使用するメソッドがある。それが戒律である。
未だ神知らぬ身には、何が聖で何が俗かわからない。何が正で何が邪かわからない、何が善で何が悪かわからない。
でも戒律を守って行動していけば、悪の側に落ちることは少ない。
しかし人間は変わった。中世以前は、正統的組織宗教に所属して戒律を守れば、大概良しとされた。いわば形をメインと考えていた時代であって、誰もが大悟する必要は切羽っ詰まっていなかった。
今は内実そのものが問われる時代で、かつては宗教組織が規制していた戒律を自分が自ら課して、それをそのまま生きることを求められている時代。
言うまでもないが未見神の者と、既に見神した者にとっての戒律の位置は異なる。しかしその戒律の中身は、服従、清貧、童貞(純潔)であって、自分というものを小さく少なくしていこうという方向性のものである。
いまの時代は、謙遜を破壊しがちな社会制度と通念が隆盛であるからこそ、自分の気に入った戒律でもって自分を律していかないと、自分がつぶれてしまう。
ベネディクト戒律だけでなく、禅の清規、功過格なども戒律の一種。


悟りとは何か