◎クリシュナムルティ−3
○瞑想という名の別世界
単に世界の変容とか別天地という表現だと、人はしばしば別のものを想像する。クリシュナムルティの次の文章では、瞑想という名で別世界が展開する。
『見守っていると、瞑想が、強制されたのでもなく、思考とは無縁に訪れました。それは地平線がなく、時間とも無縁な、拡大して広がっている空虚の瞑想で、時間と距離の壮大な空間と出会っている精神の、あの計り知れない空間でした。
その出会いの中に空虚がありました。それは、あらゆる既知の死で、楽しみや、喜びや、悲しみの、あらゆる活動の死でした。
思考は、時間とは無縁な空間の空虚の中ヘ赴くことができず、沈黙しました。それは経験できないことだったので、あらゆる認識が止みました。経験は認識であり、既知の継続です。
瞑想は既知を根絶やしにすることです。言葉や認識や既知が止み、精神の計り知れない空間がそれ自身の速さで広がって、後に何も残しませんでした。それは境界のないエネルギーでした。』
(クリシュナムルティ・ノート/クリシュナムルティ/たま出版P414から引用)
その瞑想は、思考停止、想念停止であるから、時間のない世界のことである。思考が止まったからには、経験できないことだったので、認識も止まった。このあたりが「経験とはいえない経験」ということになるだろう。時間も思考も想念もない世界こそは、リアルである別世界である。
クリシュナムルティは、余計なことは書かないので、只管打坐の説明としてはこれで充分。しかし、時間のない世界の表象は、宇宙樹や世界樹になることが、なぜか思い浮かぶ。
そんなことは、真摯な只管打坐修行者には百害あって一利なしなのだろう。
しかしこの時間のない世界こそが「今ここ」であり、この体験とは言えない体験のない者が「今ここ」を言うのはどうなんだろうか。
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悟りとは何か
○瞑想という名の別世界
単に世界の変容とか別天地という表現だと、人はしばしば別のものを想像する。クリシュナムルティの次の文章では、瞑想という名で別世界が展開する。
『見守っていると、瞑想が、強制されたのでもなく、思考とは無縁に訪れました。それは地平線がなく、時間とも無縁な、拡大して広がっている空虚の瞑想で、時間と距離の壮大な空間と出会っている精神の、あの計り知れない空間でした。
その出会いの中に空虚がありました。それは、あらゆる既知の死で、楽しみや、喜びや、悲しみの、あらゆる活動の死でした。
思考は、時間とは無縁な空間の空虚の中ヘ赴くことができず、沈黙しました。それは経験できないことだったので、あらゆる認識が止みました。経験は認識であり、既知の継続です。
瞑想は既知を根絶やしにすることです。言葉や認識や既知が止み、精神の計り知れない空間がそれ自身の速さで広がって、後に何も残しませんでした。それは境界のないエネルギーでした。』
(クリシュナムルティ・ノート/クリシュナムルティ/たま出版P414から引用)
その瞑想は、思考停止、想念停止であるから、時間のない世界のことである。思考が止まったからには、経験できないことだったので、認識も止まった。このあたりが「経験とはいえない経験」ということになるだろう。時間も思考も想念もない世界こそは、リアルである別世界である。
クリシュナムルティは、余計なことは書かないので、只管打坐の説明としてはこれで充分。しかし、時間のない世界の表象は、宇宙樹や世界樹になることが、なぜか思い浮かぶ。
そんなことは、真摯な只管打坐修行者には百害あって一利なしなのだろう。
しかしこの時間のない世界こそが「今ここ」であり、この体験とは言えない体験のない者が「今ここ」を言うのはどうなんだろうか。


悟りとは何か