◎人のさかしらを越えて
最終解脱とは、ジャンプの究極である。ジャンプとは、意識の観点からは、顕在意識から潜在意識へと移行することである。
ジャンプの究極=ジャンプ・アウトとは、あらゆる個別的な事象の外に出て、全体そのものを一望の下に俯瞰すると同時に実在そのものになっていること。
仮にジャンプの初手、つまり顕在意識から潜在意識への移行が、脳内の麻薬の薬理作用をきっかけにして起こるとすれば、あらゆる冥想テクニックはその特定の脳内薬理作用を起こすことを目的としていると考えられる。
逆にドン・ファン・マトゥスのペヨーテ・サボテンなどのジャンプ・アウトを引き起こし得る薬物は、やはり脳に外部から作用して同様の特定の薬理作用を引き起こし得るとも考えられる。
潜在意識には、肉体から、エーテル体、ニルヴァーナまであり得るが、脳が肉体に属する以上は、脳はそのロードマップで言えば、ゲートに過ぎないのであって、ここで禅家がゲート『関』を重視した訳が理解できる。
脳で何かが起きたとしても、どこまで進めるかは保証の限りではないし、また何か起きたとしても起きたすべてを理解できるとは限らない。
また何より同じ坐相で同じ時間に坐り、同じものを食していた二人が同時に必ず大悟できるわけではないし、それはまた同じ向精神性薬物を同一分量与えられた二人が必ず覚醒できるわけでもないということも、その前のハードルとしてある。
ジャンプ・アウトとは、大体が人のさかしらを越えている。しかし越えようとする意欲は欠かせないものでもある。
最終解脱とは、ジャンプの究極である。ジャンプとは、意識の観点からは、顕在意識から潜在意識へと移行することである。
ジャンプの究極=ジャンプ・アウトとは、あらゆる個別的な事象の外に出て、全体そのものを一望の下に俯瞰すると同時に実在そのものになっていること。
仮にジャンプの初手、つまり顕在意識から潜在意識への移行が、脳内の麻薬の薬理作用をきっかけにして起こるとすれば、あらゆる冥想テクニックはその特定の脳内薬理作用を起こすことを目的としていると考えられる。
逆にドン・ファン・マトゥスのペヨーテ・サボテンなどのジャンプ・アウトを引き起こし得る薬物は、やはり脳に外部から作用して同様の特定の薬理作用を引き起こし得るとも考えられる。
潜在意識には、肉体から、エーテル体、ニルヴァーナまであり得るが、脳が肉体に属する以上は、脳はそのロードマップで言えば、ゲートに過ぎないのであって、ここで禅家がゲート『関』を重視した訳が理解できる。
脳で何かが起きたとしても、どこまで進めるかは保証の限りではないし、また何か起きたとしても起きたすべてを理解できるとは限らない。
また何より同じ坐相で同じ時間に坐り、同じものを食していた二人が同時に必ず大悟できるわけではないし、それはまた同じ向精神性薬物を同一分量与えられた二人が必ず覚醒できるわけでもないということも、その前のハードルとしてある。
ジャンプ・アウトとは、大体が人のさかしらを越えている。しかし越えようとする意欲は欠かせないものでもある。