◎常に故郷にいる幸福
ケン・ウィルバーの日記から、
『身心が脱落するとき、そしてどこにも私が見つからないとき、光輝で果てしなく飾られた無限の、根源的な<充満>がある。<私-私>はとして開き、ここでは原初の<清浄>を汚すものはなく、ここでは概念を話すことはとてもためらわれ、ここでは二元性がその顔を恥ずかしさで隠し、そして苦悩はその名前を思い出すことさえない。
無限の充満であるここでは何も起こらず、自己存在する至福が歌われ、自己解放する振る舞いに満ち、常に故郷にいる幸福がある。
この瞬間の開けの中で無限の感謝がまったくの単純さと出会う。
永遠に、永遠に、絶望的なほど永遠に、ただそれしかないために。』
(<ワン・テイスト・下/ケン・ウィルバー/コスモスワイブラリー社>P57から引用)
こういう身心脱落の実感を描く文章のあることで、ケン・ウィルバーは覚者であることを自証する。
最後の文章の、永遠を3度繰り返す部分は、最も日常感覚から遠い部分であるので、永遠が形容詞として重要なものであることこそ、ニルヴァーナの属性ではない属性なのだろう。これぞ幽斎そのものである。
そしてもう一つのキーワードである常に故郷に居る感じ。これは太乙金華宗旨にも出てきているところである。
ケン・ウィルバーの日本への紹介者である吉福 伸逸は、2013年に亡くなったが、ケン・ウィルバーは、トランス・パーソナルだけど心理学ではなかった。只管打坐の冥想修行者だった。
ケン・ウィルバーの日記から、
『身心が脱落するとき、そしてどこにも私が見つからないとき、光輝で果てしなく飾られた無限の、根源的な<充満>がある。<私-私>はとして開き、ここでは原初の<清浄>を汚すものはなく、ここでは概念を話すことはとてもためらわれ、ここでは二元性がその顔を恥ずかしさで隠し、そして苦悩はその名前を思い出すことさえない。
無限の充満であるここでは何も起こらず、自己存在する至福が歌われ、自己解放する振る舞いに満ち、常に故郷にいる幸福がある。
この瞬間の開けの中で無限の感謝がまったくの単純さと出会う。
永遠に、永遠に、絶望的なほど永遠に、ただそれしかないために。』
(<ワン・テイスト・下/ケン・ウィルバー/コスモスワイブラリー社>P57から引用)
こういう身心脱落の実感を描く文章のあることで、ケン・ウィルバーは覚者であることを自証する。
最後の文章の、永遠を3度繰り返す部分は、最も日常感覚から遠い部分であるので、永遠が形容詞として重要なものであることこそ、ニルヴァーナの属性ではない属性なのだろう。これぞ幽斎そのものである。
そしてもう一つのキーワードである常に故郷に居る感じ。これは太乙金華宗旨にも出てきているところである。
ケン・ウィルバーの日本への紹介者である吉福 伸逸は、2013年に亡くなったが、ケン・ウィルバーは、トランス・パーソナルだけど心理学ではなかった。只管打坐の冥想修行者だった。