◎幽斎の欠如、不足
ユダヤ人の風習の中にはおののきの日(ヤミン・ノライーム)というのがある。
神は元旦に、人々の行為を記録する記録の書を開き、向こう一年を生きながらえることができる者の名をそこに書き入れる。
名前を書き入れられる資格のある者は、過去の行いが善い者と進んで罪を告白しようとする者、罪を繰り返さない決意をしている者。
毎年末に、多くのユダヤ人は、記録の書である「命の書」に自分の名前が書かれないかもしれないという不安におののく。
それで年末のおののきの日の前に、ユダヤ人は亡くなった者の墓に参り先祖の遺徳をしのび、シナゴーグに足を運び「命の書」に自分の名が書き込まれるように祈る。
このように彼らにとっては、毎年末は審判であり、その総決算が最後の審判である。最後の審判はユダヤ人の日常の生活習慣の延長線上にあった。
心ある日本人も大祓で一年の穢れを祓う。人は肉体を持っている限り祓わねばならぬ穢れは起こるもの。でもそれは、人間がやらなければならない半分に過ぎない顕斎であって、残りの半分の幽斎も必ず行わなければならない。
幽斎の欠如、不足というのは、時代的問題でもある。
ユダヤ人の風習の中にはおののきの日(ヤミン・ノライーム)というのがある。
神は元旦に、人々の行為を記録する記録の書を開き、向こう一年を生きながらえることができる者の名をそこに書き入れる。
名前を書き入れられる資格のある者は、過去の行いが善い者と進んで罪を告白しようとする者、罪を繰り返さない決意をしている者。
毎年末に、多くのユダヤ人は、記録の書である「命の書」に自分の名前が書かれないかもしれないという不安におののく。
それで年末のおののきの日の前に、ユダヤ人は亡くなった者の墓に参り先祖の遺徳をしのび、シナゴーグに足を運び「命の書」に自分の名が書き込まれるように祈る。
このように彼らにとっては、毎年末は審判であり、その総決算が最後の審判である。最後の審判はユダヤ人の日常の生活習慣の延長線上にあった。
心ある日本人も大祓で一年の穢れを祓う。人は肉体を持っている限り祓わねばならぬ穢れは起こるもの。でもそれは、人間がやらなければならない半分に過ぎない顕斎であって、残りの半分の幽斎も必ず行わなければならない。
幽斎の欠如、不足というのは、時代的問題でもある。