◎天国は、畑に隠してある宝のようなもの
新約聖書マタイ伝13章から
『天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。
高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。』
持ち物をすべて捧げないと入れないので、これは天国の片隅で辺地往生を狙ういわゆる霊界天国、極楽のことを天国と言っているわけではない。
すべて捧げるというシーンは生半可なものでなく、すべてを捧げれば必ず得られる確証もないが、その素晴らしさを直感しているか、感じ取っているがゆえにすべてを捧げるというようなもの。
禅の十牛図でいえば、第七図から第八図へと渡るところか。
この話をよりによって、売買に例えるとはね。
新約聖書マタイ伝13章から
『天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。
高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。』
持ち物をすべて捧げないと入れないので、これは天国の片隅で辺地往生を狙ういわゆる霊界天国、極楽のことを天国と言っているわけではない。
すべて捧げるというシーンは生半可なものでなく、すべてを捧げれば必ず得られる確証もないが、その素晴らしさを直感しているか、感じ取っているがゆえにすべてを捧げるというようなもの。
禅の十牛図でいえば、第七図から第八図へと渡るところか。
この話をよりによって、売買に例えるとはね。