◎何時となく北の叟(おきな)のごとくせば
唐代の北叟の話。
北叟は、人事が常ならぬことをわきまえ、主君に仕えて名利を貪る気持ちもなく、私欲により財宝を蓄える心もなく、都の北に柴の庵を結んで、麻の衣を着て寒さをしのぎ、草を摘み、木の実を拾って日々を送っていた。
喜ぶべきことを聞いては、ちょっと笑み、憂うべきことを聞いても、ちょっと笑むことから人は、これを北叟笑み(ほくそえみ)と呼んだ。
後鳥羽法皇は、隠岐ご配流のおり、
何時となく北の叟(おきな)のごとくせば この理(ことわり)や 思ひ知るらん
と御製を遊ばされた。この北の叟とは北叟のことであって、後鳥羽法皇は、結局北叟のような自己実現を目標としない人生を最初から選ばれることはなかった。
後鳥羽法皇は、隠岐で19年を過ごし、そこで崩御せられた。
さらに隠岐での御製、
おなじ世にまた住の江の月や見む今日こそよその隠岐つ島守
これでは、北叟笑みはなかっただろう。
唐代の北叟の話。
北叟は、人事が常ならぬことをわきまえ、主君に仕えて名利を貪る気持ちもなく、私欲により財宝を蓄える心もなく、都の北に柴の庵を結んで、麻の衣を着て寒さをしのぎ、草を摘み、木の実を拾って日々を送っていた。
喜ぶべきことを聞いては、ちょっと笑み、憂うべきことを聞いても、ちょっと笑むことから人は、これを北叟笑み(ほくそえみ)と呼んだ。
後鳥羽法皇は、隠岐ご配流のおり、
何時となく北の叟(おきな)のごとくせば この理(ことわり)や 思ひ知るらん
と御製を遊ばされた。この北の叟とは北叟のことであって、後鳥羽法皇は、結局北叟のような自己実現を目標としない人生を最初から選ばれることはなかった。
後鳥羽法皇は、隠岐で19年を過ごし、そこで崩御せられた。
さらに隠岐での御製、
おなじ世にまた住の江の月や見む今日こそよその隠岐つ島守
これでは、北叟笑みはなかっただろう。