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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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ある王子の死

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◎一人で坐る

OSHOバグワンの布教史で最大の転機というべきものは、米国進出。

1980年頃には、プーナが5千人規模となり、地元住民と信者のあつれきが絶えず、かつまたサンニャーシン内部でのセックス、薬物、暴力の規律の乱れも看過できないものになり、教団自体が、アメリカのオレゴンに進出した。

米国進出の前夜で大きな事件は、OSHOバグワン自身の父の死と、ベルギーの王子ヴィマルキルティの死だった。

ヴィマルキルティは、なんとイギリスのチャールズ皇太子従兄弟にして少年時代からのポン友であった。

彼は、痩せた190cmくらいの巨漢で、妻も子供もいたが、家族もろともアシュラムに身を投じていたのだった。

ヒュー・ミルンの「ラジニーシ 堕ちた神」では、ヴィマルキルティは脳卒中で倒れ、生命維持装置で生きながらえていたが、そのスイッチを切る指示を出したのはOSHOバグワンだとの推測をしている。それは微妙な問題だが、危篤シーンではわりとよくある風景ではあろう。

社会的道義的問題はあろうが、OSHOバグワンにとっては、生も死も変わりはない。アシュラムというのは、そういう場なのだろうと思う。

野垂れ死にを恐れて出家する者など本来いないはず。

だが、僧団、教団、アシュラムが覚者の群れであったことは極めて稀れ。道元のいた天童如浄の所ですら、千人中2、3人などと言われていたのであって、五百羅漢いた釈迦はレア・ケース。

坐るときは一人なのだ。

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