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天門開闔して、能く雌たらんか

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◎サハスラーラを開いてアートマン

「天門開闔(かいこう)して、能く雌たらんか。」は、老子第十章にある。

天門は、サハスラーラ・チャクラでこれを開いて、雌は、玄牝のイメージなので、アートマンたる第六身体。禅の十牛図なら牛にあたる。

老子第十章の原文は以下のようにとても短いが、政治社会次元で無理やり解釈しようとすると、王弼(易経の注釈での天才)以来の伝統的な注釈を見て、長々と解釈せざるをえなかったのだろう。これを神秘生理学風に解釈したほうがしっくりくる。

「原文
載營魄抱一、能無離乎。專氣致柔、能孾兒乎。滌除玄覽、能無疵乎。愛民治國、能無以智乎。天門開闔、能爲雌乎。明白四達、能無以爲乎。生之畜之、生而不有、爲而不恃、長而不宰。是謂玄徳。」

神秘生理学風な解釈はこんな感じ。

悟りを開きながらそれを気にしないで生きていけるか。気のコントロールで十全の柔軟性を得て赤ん坊みたいになれるか。

道という視点を消したままで傷なく生きられるか。民を愛し国を治めるにあたってその全智を出さずにやれるか。

サハスラーラ・チャクラを開いて玄牝たるか。あらゆることを明白に承知していながら、それを出さずにやっていけるか。

道を生き、道を畜(やしな)い、それを自分のものとせず生き、道を恃みとしないで行動し、道を成長させてもそれを主宰しようとしない。これを玄徳という』

よく禅家が、大悟した人にそれを忘れて生きていなさいとアドバイスするのだが、この文章の後半はそんな雰囲気である。

要するにサハスラーラを開いても、それにこだわらずに生きて行きなさいということで、禅でいう悟後の修行、聖胎長養をしなさい、というニュアンスがうかがえる。また大悟した者の超能力発現も当然のものみたいな前提もうかがえる。

こういうことからも老子の境地は只管打坐的、禅的と考えられる。

老子第十章は、このような解釈でよいと思うが、西洋人はインド人も含めともすれば漢文を、神秘生理学風、神秘主義的に解釈したがる悪い癖がある。

老子、荘子も、西洋人の訳したのを見ると、こんな解釈もあったのかと驚くところは、大概神秘主義的に解釈したところ。

OSHOバグワンは、老子、荘子は英訳で見ているから、そういうところの悪影響はある。

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