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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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師に出会えないように見える

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◎金でも儀式でも教学でもない

現代人は、少々の金を出せば師に出会って教えを受けられるものだと思いがちである。

世の中のもめ事の9割は金で方がつくので、どうしてもそういう発想になりがちである。法治国家というものはそういうものである。

また少額の金で正師に出会えないなら、多額の金を積めば出会えるだろうと考える人の多いのは、世に高額セミナーや段階的に金を積ませる伝授システムがはやる原因である。

そういう似非セミナーは、生徒に受け入れる準備がないのに、奥義を伝授してくれちゃったりするが、その奥義は伝わるのかという疑問以前に、その秘伝・奥義とは本物なのだろうかと思う。

だが、2000年以降、世間的に見て大物・有名覚者は、ほとんど隠れ、とても少ない。そこで「師が見つからない、師に出会えない」と、商業主義、データ分析に勝った知的な人は感じるかもしれない。

そこで古人は、言う、『弟子に準備ができた時に師と出会うことができる』。

『昨夜、イエス・キリストがあなたの部屋に降臨したが、あなたは眠っていて気がつかなかった。』などと、よく言われる。正師がどういうものかわからなければ、正師に出会っても気づかない。

本物が何かわからなければ、大枚はたいて得た偽奥義・秘伝を本物だと思い込んで、一生それを大切にして生きたり教えてしまったりする。

また弟子が伝授を強く希望するからといって、それを与えることができる正師もなく、また与えようという正師もいない。

まともな師は、伝授できる弟子を探し求める。伝授を受ける資格(公的資格ではありません)のある弟子がいなければ伝授はできない。だから禅でも大悟した師が正法を伝授(嗣法)できるのは一人半人などと言う。

その一人半人になるためには、冥想行が要る。教学のペーパーテストに合格するのはそれとは関係ない。

秘儀・伝授の窮極とは、時に口頭伝授でもない。釈迦が霊鷲山で説法した際、大衆の前で、花一輪をひねってみせたものの、皆その意味がわからず、高弟の摩訶迦葉だけが真意を知って微笑したように、身振りのものもあれば、以心伝心もある。

さて、最も重要な秘儀秘伝の伝授を乞う時に、ヒマラヤでは、弟子は一束の柴を師に捧げ、師はそれを燃やすという。

金でも儀式でも教学でもないところに本物があるのであって、一見師に出会えないように見えるのは、上面のことである。

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