◎人間がとらわれるもの
人間がとらわれる主なものは、以下ある。
1.性欲
神々の間のいさかいも三角関係で起こるのは、ギリシア神話に数多く見るところであり、霊界物語の最終盤天祥地瑞でも不倫がストーリーのアヤを作り出している。
肉体でいえば、種の保存という本能がバックボーンになっている。
2.食欲
食べることも本能であり、どんなにショックを受けても、どんな悲しみのどん底にあってもしばらくすると空腹を感じて腹に詰め込もうとするものである。
終戦直後の空腹な時代を知っている人は少なくなったが、今三食を食べられない子供の空腹が話題に上るようになった。その子供の背後には空腹な親が控えている。
国民の貧困化は相当に進行している。
だが、青年男女のメインテーマは、今も昔も性欲と食欲。
3.感情
失恋、嫉妬、羨望、そして理不尽・不条理な仕打ちへの怒り、自分の誇りが傷つけられることへの怒り。
中国人が怒ると白目をむくが、そういうのは怒りの典型である。
そして恐怖。東日本大震災で津波などに遭われた方の中には、恐怖がPTSDになっている人もいらっしゃることだろう。ひどい恐怖は人間の最も深いところを揺り動かす場合があり、本山博は、その恐怖に何百年もとらわれて抜け出せていない人を霊視している。
4.想念
自分の想像したイメージが現実だと感じられ、本当の現実と自分のイメージ・想念の区別がつかないケース。これは、発展すると「自分の想念が現実である」と思い込んで、最も厄介なタイプのとらわれとなる。
だが人は、多かれ少なかれ想像で推測したりイメージ構成したりしてモチベーションを作って行動するものではあるが、現実との比較や現実とのコンタクトを忘れた想念・イメージに落ち込むと、そこから抜け出すのは困難になる。
5.愛
献身的な相手への愛も、場合によっては相手への執着となることは、よく見聞きするところ。
6.知識
学説同士の論争もそうだが、宗教・宗派間の教義論争も、これもよく起こることであって、これもとらわれである。
本来究極に到達した宗教は、宗派の区別なく同じ神・仏・道から流れ出でているもので、教義で論争になること自体変なこと。
釈迦といふ いたづらものが世に出でて
多くの人を迷はするかな
一休
外教
博愛を口には言へど耶蘇教は他宗を見れば憎みあらそふ
出口王仁三郎
悟りとは、自分のすべてを捨てる覚悟が出来、捨てた先に起こることがあるが、それはあらゆるとらわれを卒業するということである。
人間がとらわれる主なものは、以下ある。
1.性欲
神々の間のいさかいも三角関係で起こるのは、ギリシア神話に数多く見るところであり、霊界物語の最終盤天祥地瑞でも不倫がストーリーのアヤを作り出している。
肉体でいえば、種の保存という本能がバックボーンになっている。
2.食欲
食べることも本能であり、どんなにショックを受けても、どんな悲しみのどん底にあってもしばらくすると空腹を感じて腹に詰め込もうとするものである。
終戦直後の空腹な時代を知っている人は少なくなったが、今三食を食べられない子供の空腹が話題に上るようになった。その子供の背後には空腹な親が控えている。
国民の貧困化は相当に進行している。
だが、青年男女のメインテーマは、今も昔も性欲と食欲。
3.感情
失恋、嫉妬、羨望、そして理不尽・不条理な仕打ちへの怒り、自分の誇りが傷つけられることへの怒り。
中国人が怒ると白目をむくが、そういうのは怒りの典型である。
そして恐怖。東日本大震災で津波などに遭われた方の中には、恐怖がPTSDになっている人もいらっしゃることだろう。ひどい恐怖は人間の最も深いところを揺り動かす場合があり、本山博は、その恐怖に何百年もとらわれて抜け出せていない人を霊視している。
4.想念
自分の想像したイメージが現実だと感じられ、本当の現実と自分のイメージ・想念の区別がつかないケース。これは、発展すると「自分の想念が現実である」と思い込んで、最も厄介なタイプのとらわれとなる。
だが人は、多かれ少なかれ想像で推測したりイメージ構成したりしてモチベーションを作って行動するものではあるが、現実との比較や現実とのコンタクトを忘れた想念・イメージに落ち込むと、そこから抜け出すのは困難になる。
5.愛
献身的な相手への愛も、場合によっては相手への執着となることは、よく見聞きするところ。
6.知識
学説同士の論争もそうだが、宗教・宗派間の教義論争も、これもよく起こることであって、これもとらわれである。
本来究極に到達した宗教は、宗派の区別なく同じ神・仏・道から流れ出でているもので、教義で論争になること自体変なこと。
釈迦といふ いたづらものが世に出でて
多くの人を迷はするかな
一休
外教
博愛を口には言へど耶蘇教は他宗を見れば憎みあらそふ
出口王仁三郎
悟りとは、自分のすべてを捨てる覚悟が出来、捨てた先に起こることがあるが、それはあらゆるとらわれを卒業するということである。