◎原理の平易さと現実での受け入れがたさ
七つの身体は、現代人なら演繹的に肉体の側からスタートしニルヴァーナに至ると考えるのだが、古代秘教なら帰納的にニルヴァーナからアートマンが発出し、最後には肉体に至る。
どちらの順序でも説明はできる。逆順の天国と地獄の結婚の説明が老子にある。
【老子 第42章 道生一】
『有無一如の玄なる道は、先ず有なる一としてあらわれる。その有は陰陽の二気に分かれ、更にこの二気は冲気(陰陽二気を中和交流させる気)によって相和し、そこに万物が生じる。 云々』
訓読『道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負いて陽を抱き、沖気(ちゅうき)以(も)って和を為す。』
天国と地獄の結婚については、なぜだか説明がなかったり、短かったりする。
老子ではこのように『一は二を生じ』とあっさりしたものである。
古神道の伊都能売は、両性具有なのだが、古事記では、何の説明もなく神名だけが登場する。
このようにその原理はあまりにも平易だが、それを人間が現実に受け入れるとなると、きわめて受け入れがたい。よって、その原理のポイントは、知的に理解することではなく、体験なのだろうと思われる。自分の存在そのものを揺るがされるそのエマージェンシーな事態。
だからこそ、この天国と地獄双方に直面しかけることを人生の裂け目などと呼ぶ。
世界の裂け目とは、日常生活が安定しているものだという安心感、先入観が足元から崩れおち、心理的混乱や恐怖・怯えている状態で、異様なものを見ている状態とでも言おうか。入り口は心理だが、起こっていることは、心理を超えて、立ち位置としての世界が変わっている。
七つの身体は、現代人なら演繹的に肉体の側からスタートしニルヴァーナに至ると考えるのだが、古代秘教なら帰納的にニルヴァーナからアートマンが発出し、最後には肉体に至る。
どちらの順序でも説明はできる。逆順の天国と地獄の結婚の説明が老子にある。
【老子 第42章 道生一】
『有無一如の玄なる道は、先ず有なる一としてあらわれる。その有は陰陽の二気に分かれ、更にこの二気は冲気(陰陽二気を中和交流させる気)によって相和し、そこに万物が生じる。 云々』
訓読『道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負いて陽を抱き、沖気(ちゅうき)以(も)って和を為す。』
天国と地獄の結婚については、なぜだか説明がなかったり、短かったりする。
老子ではこのように『一は二を生じ』とあっさりしたものである。
古神道の伊都能売は、両性具有なのだが、古事記では、何の説明もなく神名だけが登場する。
このようにその原理はあまりにも平易だが、それを人間が現実に受け入れるとなると、きわめて受け入れがたい。よって、その原理のポイントは、知的に理解することではなく、体験なのだろうと思われる。自分の存在そのものを揺るがされるそのエマージェンシーな事態。
だからこそ、この天国と地獄双方に直面しかけることを人生の裂け目などと呼ぶ。
世界の裂け目とは、日常生活が安定しているものだという安心感、先入観が足元から崩れおち、心理的混乱や恐怖・怯えている状態で、異様なものを見ている状態とでも言おうか。入り口は心理だが、起こっていることは、心理を超えて、立ち位置としての世界が変わっている。