◎冥想的ライフ・スタイルとミス・マッチ
自分の内面に浮かぶことを次々とメモし、後でそれを読み返すと、気ちがいじみている。それは他人に見せるようなものではなく、他人がそれを見たら、この人は狂っていると思うだろう。
マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』は、そうした長大なメモ書きのようなものだが、ちゃんと読めるからとりあえず狂気ではないようには見える。だが、他人には何の価値もないことを延々と羅列されている。ほとんどの他人はそんなものを見たくはないし、本人も見られたくない。
人には、本音と建前がある。かつてのテレビドラマの渡る世間は鬼ばかりを一度だけ見たことがある。その遠慮のないあけすけで本音のみのストレートな会話のやりとりに驚いたら、そのドラマは思ったことをそのまま言葉にしているのが売りのドラマだそうだ。意識をストレートに言葉で表現というやつだ。そこには、諍いやショックはあるが美は少ない。
人は、こんなゴミためのような自分の意識を覗き込みたいなどとは思わないものだ。自分の意識を見たり、自分自身を思い出すのは不愉快なものだからだ。皆、本音では、自分自身から逃避したい。
この近代西欧文明は、自分自身から逃避する文明。ライフ・スタイル全体がそうなってしまった。テレビ、ドラッグ、動画、ゲーム、スポーツ、クラブでの激しいダンス、レイブ、集会、講演会、演劇鑑賞、音楽ライブ、神社仏閣の参詣、宗教行事参加、パワースポット巡り、グルメ、酒等々、自分の外側にある何かにいつでも巻き込まれていることで自分を忘れることを延々と繰り返すことができる。
自分自身から逃避したいのは、なぜか。自分の状態が自分でも目をそむけたいほど悪化しているからである。社会生活は建前全盛となり、内実は評価されない。
人は人前では流行のファッションをまとい美しいが、中身は目もあてられない。これが平均的現代人像。
素直になるというのは、そういう自分、みじめで情けない自分をさらけ出すことではなく(フランクさではそうなるのではあるが)、まずは自分で自分がみじめで情けないことを内心で認めること。
こういうところも今の社会通念、慣習が冥想的ライフ・スタイルとミス・マッチなところではある。
かくして、冥想への敷居は高い。
自分の内面に浮かぶことを次々とメモし、後でそれを読み返すと、気ちがいじみている。それは他人に見せるようなものではなく、他人がそれを見たら、この人は狂っていると思うだろう。
マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』は、そうした長大なメモ書きのようなものだが、ちゃんと読めるからとりあえず狂気ではないようには見える。だが、他人には何の価値もないことを延々と羅列されている。ほとんどの他人はそんなものを見たくはないし、本人も見られたくない。
人には、本音と建前がある。かつてのテレビドラマの渡る世間は鬼ばかりを一度だけ見たことがある。その遠慮のないあけすけで本音のみのストレートな会話のやりとりに驚いたら、そのドラマは思ったことをそのまま言葉にしているのが売りのドラマだそうだ。意識をストレートに言葉で表現というやつだ。そこには、諍いやショックはあるが美は少ない。
人は、こんなゴミためのような自分の意識を覗き込みたいなどとは思わないものだ。自分の意識を見たり、自分自身を思い出すのは不愉快なものだからだ。皆、本音では、自分自身から逃避したい。
この近代西欧文明は、自分自身から逃避する文明。ライフ・スタイル全体がそうなってしまった。テレビ、ドラッグ、動画、ゲーム、スポーツ、クラブでの激しいダンス、レイブ、集会、講演会、演劇鑑賞、音楽ライブ、神社仏閣の参詣、宗教行事参加、パワースポット巡り、グルメ、酒等々、自分の外側にある何かにいつでも巻き込まれていることで自分を忘れることを延々と繰り返すことができる。
自分自身から逃避したいのは、なぜか。自分の状態が自分でも目をそむけたいほど悪化しているからである。社会生活は建前全盛となり、内実は評価されない。
人は人前では流行のファッションをまとい美しいが、中身は目もあてられない。これが平均的現代人像。
素直になるというのは、そういう自分、みじめで情けない自分をさらけ出すことではなく(フランクさではそうなるのではあるが)、まずは自分で自分がみじめで情けないことを内心で認めること。
こういうところも今の社会通念、慣習が冥想的ライフ・スタイルとミス・マッチなところではある。
かくして、冥想への敷居は高い。