◎兀然(こつぜん)として無事に坐すれば
新春。
兀然(こつぜん)として無事に坐すれば、
春来たりて草自ずから生ず
(兀然無事座 春来草自生)
(不動の姿勢で端坐すれば、春が向こうからやってきて草は自ずから生える)
弟子になる、弟子としてあるというのは、感受性を鋭敏にしあらゆる受動性を師に向けるということであって、一寸の攻撃性があってはならない。
このような絶対服従に無私があり、師の一挙手一投足に自ずと感応する。
だが、どんな優れた師家であっても、その弟子全員が解脱するわけでなく、伝統的には大悟した師家一人につき、大悟した弟子を出すノルマは、一人または0.5人などと言いならわす。でも0.5人であれば、まもなくその宗教は継ぐ人がなくなり滅亡する。
殊更に悟ろうと頑張って何日坐ったら悟りが開けたという教訓が多数ある一方で、精神の成熟がなければ、春は訪れない。春さえ訪れれば、草は自ずから生えるものを。
坐禅を坐れば、坐禅的悟りが開けるかどうかは、保証のほどではない(座法と結果の不確実性)が、それでも坐る。
新春。
兀然(こつぜん)として無事に坐すれば、
春来たりて草自ずから生ず
(兀然無事座 春来草自生)
(不動の姿勢で端坐すれば、春が向こうからやってきて草は自ずから生える)
弟子になる、弟子としてあるというのは、感受性を鋭敏にしあらゆる受動性を師に向けるということであって、一寸の攻撃性があってはならない。
このような絶対服従に無私があり、師の一挙手一投足に自ずと感応する。
だが、どんな優れた師家であっても、その弟子全員が解脱するわけでなく、伝統的には大悟した師家一人につき、大悟した弟子を出すノルマは、一人または0.5人などと言いならわす。でも0.5人であれば、まもなくその宗教は継ぐ人がなくなり滅亡する。
殊更に悟ろうと頑張って何日坐ったら悟りが開けたという教訓が多数ある一方で、精神の成熟がなければ、春は訪れない。春さえ訪れれば、草は自ずから生えるものを。
坐禅を坐れば、坐禅的悟りが開けるかどうかは、保証のほどではない(座法と結果の不確実性)が、それでも坐る。