◎パスパのから大相撲
モンゴルと言えばパスパ文字。パスパ文字は、チベット語の飾り文字であって、パスパの時代のチベット人なら誰でも読めたらしい。
北京近郊の万里の長城観光に行くと途中で通る居庸関。この元代に築造された雲台には、漢字、ランジャナー文字、ウイグル文字、チベット文字、パスパ文字、西夏文字の6種類の文字で造塔功徳記が刻まれている。
パスパは5歳にして父と死別。叔父のサキャ・パンディタが彼を仏門に入れたが、7歳にして経文数万語をそらんじるなど天才の誉れ高かった。
パスパの叔父は、かのチベット密教サキャ派の総帥サキャ・パンディタ。サキャ・パンディタの叔父が以前に彼の北方での布教を予言しており、予言どおり63歳にしてサキャ・パンディタは、甥のパスパ10歳を連れて、モンゴルの第二代ウゲデイ汗の第二子涼州のゴダン王子のもとに向かった。
1246年、サキャ・パンディタはハンセン病だったらしいゴダン王子に灌頂を授けるとその病はたちまち快癒した。これによりサキャ・パンディタは、モンゴル人の尊崇を受けた。
パスパ17歳の時に、サキャ・パンディタが逝去。だがゴダン王子のパスパへの評価が高く、それを伝え聞いた、まだ王子だったクビライは、19歳のパスパに百騎の騎兵隊を差し向けパスパを迎えた。
クビライは、最初パスパのような小童に、下座にいて灌頂を受けることに抵抗していたが、クビルガ妃の口添えにより金剛灌頂を受け、以後クビライは、パスパが亡くなるまで心服していた。
パスパは北京からクビライの再三の引き留めにもかかわらず、チベットに2回帰国。サキャ派総帥であったパスパは、1280年11月チベットで46歳で亡くなった。
モンゴルはいまだにラマ教だが、その起こりがこのパスパとフビライの関係。
(参考:パスパ文字の話/中野美代子)
出口王仁三郎が、未決中にモンゴル遠征を果たし日本人が将来モンゴルに走る型を出し、大本教のご神体を笹目秀和に預けるとき次の時代の世界の中心がモンゴルであることを予言している。
それが成るには、モンゴル側にも受け入れる人物の出現が要る。大相撲のモンゴル人の活躍も漫然と見るべきではないのだろう。
モンゴルと言えばパスパ文字。パスパ文字は、チベット語の飾り文字であって、パスパの時代のチベット人なら誰でも読めたらしい。
北京近郊の万里の長城観光に行くと途中で通る居庸関。この元代に築造された雲台には、漢字、ランジャナー文字、ウイグル文字、チベット文字、パスパ文字、西夏文字の6種類の文字で造塔功徳記が刻まれている。
パスパは5歳にして父と死別。叔父のサキャ・パンディタが彼を仏門に入れたが、7歳にして経文数万語をそらんじるなど天才の誉れ高かった。
パスパの叔父は、かのチベット密教サキャ派の総帥サキャ・パンディタ。サキャ・パンディタの叔父が以前に彼の北方での布教を予言しており、予言どおり63歳にしてサキャ・パンディタは、甥のパスパ10歳を連れて、モンゴルの第二代ウゲデイ汗の第二子涼州のゴダン王子のもとに向かった。
1246年、サキャ・パンディタはハンセン病だったらしいゴダン王子に灌頂を授けるとその病はたちまち快癒した。これによりサキャ・パンディタは、モンゴル人の尊崇を受けた。
パスパ17歳の時に、サキャ・パンディタが逝去。だがゴダン王子のパスパへの評価が高く、それを伝え聞いた、まだ王子だったクビライは、19歳のパスパに百騎の騎兵隊を差し向けパスパを迎えた。
クビライは、最初パスパのような小童に、下座にいて灌頂を受けることに抵抗していたが、クビルガ妃の口添えにより金剛灌頂を受け、以後クビライは、パスパが亡くなるまで心服していた。
パスパは北京からクビライの再三の引き留めにもかかわらず、チベットに2回帰国。サキャ派総帥であったパスパは、1280年11月チベットで46歳で亡くなった。
モンゴルはいまだにラマ教だが、その起こりがこのパスパとフビライの関係。
(参考:パスパ文字の話/中野美代子)
出口王仁三郎が、未決中にモンゴル遠征を果たし日本人が将来モンゴルに走る型を出し、大本教のご神体を笹目秀和に預けるとき次の時代の世界の中心がモンゴルであることを予言している。
それが成るには、モンゴル側にも受け入れる人物の出現が要る。大相撲のモンゴル人の活躍も漫然と見るべきではないのだろう。