◎悟っていなくても前向きに消化
前世のカルマというのは、厳密にいえば、個人の前世ばかりでなく、家系のカルマ、地域のカルマ、地方のカルマ、国のカルマ、民族のカルマまで複合的に背負ったものがカルマである。こうしたカルマが個人の人生上に発現する姿がカルマの現実化であり、カルマの消化である。
ところがカルマが現実化するにあたり、他人や社会のために最善を尽くして働いて、その結果に捉われないで毎日過ごすならば、悪因縁、カルマはだんだんと日がたつにつれて雲散霧消する。
他方カルマが現実化するにさいし、そのカルマを他人や社会が困るように仕向けたりしたりする場合は、カルマは未消化のままで残る。利己的行動は利己のカルマ、情欲的行動は情欲のカルマ、知的行動は知のカルマ、情的行動は情のカルマとして種子として残る。
誠に衆善奉行諸悪莫作(善いことをして悪いことをしない)というのは生活の知恵である。
しぐさ、良い癖、悪い癖、持病、体質、傷、財産の消長などまでカルマの種子から来るものであり、クンダリーニ・ヨーギ本山博によれば、もともとのカルマの種子はカラーナ体に保持されるという。(カラーナ体は、コーザル体かメンタル体かよくわからない)
発現するときは、物質・肉体のレベルまで降りてくる。
大悟覚醒というのは、第七身体(神仏)とのダイレクト・コンタクトであるが、大悟覚醒するカルマがいつ発現するかは、今生なのか来世なのか、全然その先なのかわからないところがある。
だが、真正の覚者は、いつ覚醒するかと問われれば、必ず、いまここで直ちに、と答えるものだ。道元が、修行と悟りは一つ(修証一如)というのも本質的には同じことを言っている。
この時代、カルマを悪化させないというのは、最低限の作法であるが、社会通念、社会規範、流行に則ると悪事を犯してしまうことがあることには注意しなければならない。
悟っていない者にとって何が善悪か判断はつきにくいところはあるが、それでもできる限り前向きに日々努力は継続すべだと思う。
前世のカルマというのは、厳密にいえば、個人の前世ばかりでなく、家系のカルマ、地域のカルマ、地方のカルマ、国のカルマ、民族のカルマまで複合的に背負ったものがカルマである。こうしたカルマが個人の人生上に発現する姿がカルマの現実化であり、カルマの消化である。
ところがカルマが現実化するにあたり、他人や社会のために最善を尽くして働いて、その結果に捉われないで毎日過ごすならば、悪因縁、カルマはだんだんと日がたつにつれて雲散霧消する。
他方カルマが現実化するにさいし、そのカルマを他人や社会が困るように仕向けたりしたりする場合は、カルマは未消化のままで残る。利己的行動は利己のカルマ、情欲的行動は情欲のカルマ、知的行動は知のカルマ、情的行動は情のカルマとして種子として残る。
誠に衆善奉行諸悪莫作(善いことをして悪いことをしない)というのは生活の知恵である。
しぐさ、良い癖、悪い癖、持病、体質、傷、財産の消長などまでカルマの種子から来るものであり、クンダリーニ・ヨーギ本山博によれば、もともとのカルマの種子はカラーナ体に保持されるという。(カラーナ体は、コーザル体かメンタル体かよくわからない)
発現するときは、物質・肉体のレベルまで降りてくる。
大悟覚醒というのは、第七身体(神仏)とのダイレクト・コンタクトであるが、大悟覚醒するカルマがいつ発現するかは、今生なのか来世なのか、全然その先なのかわからないところがある。
だが、真正の覚者は、いつ覚醒するかと問われれば、必ず、いまここで直ちに、と答えるものだ。道元が、修行と悟りは一つ(修証一如)というのも本質的には同じことを言っている。
この時代、カルマを悪化させないというのは、最低限の作法であるが、社会通念、社会規範、流行に則ると悪事を犯してしまうことがあることには注意しなければならない。
悟っていない者にとって何が善悪か判断はつきにくいところはあるが、それでもできる限り前向きに日々努力は継続すべだと思う。