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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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外科手術としての死

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◎激痛と無意識

OSHOバグワンの説法は、1960年代、70年代、80年代と下がるにつれて、通俗化するところがあるように感じる。それは聴衆のレベルに対応するところだとは思う。例外的に晩年に世界各国が入国を認めず、お尋ね者みたいになってからは、よりdeepな説法が出されている。

1960年代の説法で、出版されているものは数少ない。その当時の聴衆は、インド人が多かったせいか、深遠な内容を余計な注釈なしにダイレクトに述べるものがある。

彼は、20世紀初頭にインド人の王が2時間ほどの開腹外科手術を麻酔なしで受けたことについて述べている部分がある(死・終わりなき生/OSHOバグワン/講談社P52)。これは、自分を肉体意識から退行させてできる技ではある。

これについて彼は、死とは最大の外科手術であると言ってのける。曰く、死とは全生命エネルギーであるプラーナを他の肉体に移し替える『手術』であると。すべてのエネルギーをある肉体から他の肉体に移し替える『手術』ほど大規模なものはない。

そして外科手術には激痛が伴いがちなものだが、人はそれを無意識になることによって回避する。死に際しての激痛については、臨死体験者もチベット死者の書でも「激痛」と表現はしていないように思う。

シェルショックではないが、東日本大震災での自己の内への引きこもりではないが、「激痛」など耐えられないできごとが起きると、人は無意識になりがちなものだ。チベット死者の書で狙う「意識を清明にして死を迎える」ことが簡単でないことよ。

肉体からアストラル体に進み、全体なるアートマンに一旦戻り、そこからAさんはA‘さんとして別の肉体として復活する。
誠に、色即是空の実相は七つの身体を抜きには論じられないと思う。

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