◎只管打坐は裏
ダンテス・ダイジは、現代における最高の冥想法として、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガを推した。只管打坐では、一気にそれに至り、クンダリーニ・ヨーガは一歩一歩かけてそれに至るが、その実りは大きく豊かなものとなる。
只管打坐は、生を極めることにより死をも極める。クンダリーニ・ヨーガでは、死を窮めることで生をも窮める。
ダンテス・ダイジの文明論的視座では、只管打坐により人類は救済されることができるが、クンダリーニ・ヨーガのデリカシーがないと豊かにはなるまいというようなことを言っている。
なぜ、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガなのかは、そのアプローチが逆方向であることだが、その2坐法の絶対性の評価は、自分でやってみる他はないが、一生だけで評価プロセスが足りるかどうかは保証の限りではない。
ダンテス・ダイジは、なぜだか只管打坐は裏で、クンダリーニ・ヨーガは表だという。錬金術や密教文献で、(湿った道に対して)乾いた道とか近道と言われる「道」がある文章にでくわすことがあるが、それが只管打坐なのだろうと思う。
ダンテス・ダイジのさる高弟へのアドバイスから。
『摩可般若心経 裏版 (只管打坐)
苦 消える事 なきが故に 永遠に悲しみあり。 永遠の悲しみあるが故に 無限にして永遠なる愛あり。 愛あるが故に無行為生じ、空は空自身に目覚める。』
この短文を長い文章で裏付けて読みたいと思う人は、クリシュナムルティの自己変革の方法(霞ケ関書房)か老子を読むのが良いかと思う。
さて本文、
『苦 消える事 なきが故に 永遠に悲しみあり。』
これについてはそのものズバリ。釈迦厭世の原点でもある。
『永遠の悲しみあるが故に 無限にして永遠なる愛あり。』
大慈大悲。ダンテス・ダイジは、「悟りとは命の悲しみのことだ。」「本当に悲しめよ」と指し示す一方で、その体験とは言えない体験にあって、「本当に悲しいんだ」とも漏らす。悲しみの極みが愛である。
『愛あるが故に無行為生じ、』の部分。
愛は老子の云う「道」の一つの相である。老子道徳経34章において「彼(道)はすべてものを「愛」育する。けれども決してそれの主人顔をしない。実に常に何の要求も持っていないのだ。まことに小というべしではないか。」とあるが、ここで、無為、無行為が出てくる。
『空は空自身に目覚める。』
これは、老子第16章の致虚極に見ることができる。
『万物が並び作(おこ)っているこの現象の姿がしかも同時にまた無へ帰っているそれであることを観ることができる。』
苦から、悲しみ、愛そして無為、変転極まりない空へと説ききった。
ダンテス・ダイジは、現代における最高の冥想法として、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガを推した。只管打坐では、一気にそれに至り、クンダリーニ・ヨーガは一歩一歩かけてそれに至るが、その実りは大きく豊かなものとなる。
只管打坐は、生を極めることにより死をも極める。クンダリーニ・ヨーガでは、死を窮めることで生をも窮める。
ダンテス・ダイジの文明論的視座では、只管打坐により人類は救済されることができるが、クンダリーニ・ヨーガのデリカシーがないと豊かにはなるまいというようなことを言っている。
なぜ、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガなのかは、そのアプローチが逆方向であることだが、その2坐法の絶対性の評価は、自分でやってみる他はないが、一生だけで評価プロセスが足りるかどうかは保証の限りではない。
ダンテス・ダイジは、なぜだか只管打坐は裏で、クンダリーニ・ヨーガは表だという。錬金術や密教文献で、(湿った道に対して)乾いた道とか近道と言われる「道」がある文章にでくわすことがあるが、それが只管打坐なのだろうと思う。
ダンテス・ダイジのさる高弟へのアドバイスから。
『摩可般若心経 裏版 (只管打坐)
苦 消える事 なきが故に 永遠に悲しみあり。 永遠の悲しみあるが故に 無限にして永遠なる愛あり。 愛あるが故に無行為生じ、空は空自身に目覚める。』
この短文を長い文章で裏付けて読みたいと思う人は、クリシュナムルティの自己変革の方法(霞ケ関書房)か老子を読むのが良いかと思う。
さて本文、
『苦 消える事 なきが故に 永遠に悲しみあり。』
これについてはそのものズバリ。釈迦厭世の原点でもある。
『永遠の悲しみあるが故に 無限にして永遠なる愛あり。』
大慈大悲。ダンテス・ダイジは、「悟りとは命の悲しみのことだ。」「本当に悲しめよ」と指し示す一方で、その体験とは言えない体験にあって、「本当に悲しいんだ」とも漏らす。悲しみの極みが愛である。
『愛あるが故に無行為生じ、』の部分。
愛は老子の云う「道」の一つの相である。老子道徳経34章において「彼(道)はすべてものを「愛」育する。けれども決してそれの主人顔をしない。実に常に何の要求も持っていないのだ。まことに小というべしではないか。」とあるが、ここで、無為、無行為が出てくる。
『空は空自身に目覚める。』
これは、老子第16章の致虚極に見ることができる。
『万物が並び作(おこ)っているこの現象の姿がしかも同時にまた無へ帰っているそれであることを観ることができる。』
苦から、悲しみ、愛そして無為、変転極まりない空へと説ききった。