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出口王仁三郎の前世は源為朝説

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◎軍備で破壊して再生の道筋をつける

出口王仁三郎の前世は源為朝で、その前がムハンマドだったというダンテス・ダイジの口承があるという。

爛熟腐敗の進む時代には、進み過ぎると揺り戻しがきつくなるので、頃合いを見て立替立直しがあるもの。

源為朝は、身長2mを超える大男で、気性も荒く、九州を荒らしまわった他、流罪の後伊豆諸島でも暴れ回った。

保元の乱(1156年)で崇徳上皇方で参戦。無勢のため敗戦の憂き目にあったが、一矢で鎧武者2名を撃ち抜くなど、古今無双の武勇であった。

為朝は終生無冠で、最後は、伊豆で追討軍を受け、32歳で自害したという。

為朝伝説で、気になるのは、以下。
1.義経は本当は八男だったが、為朝に遠慮して、八郎ではなく源九郎義経を名乗ったといわれる。

2.横浜市港南区上大岡東1-8付近は八郎ケ谷と呼ばれ、落人となった為朝が隠れ住んだといわれる。ここに「為朝の祠」があり、今でも近隣の人々が供養している。
3.伊豆大島に流刑となっていた為朝が矢を射たところ海を超え、鎌倉の材木座海岸まで届き、矢が届いたところから水が湧き、井戸ができ、これが現在の六角ノ井といわれている。
(以上3説wikipediaから)

明治45年元旦、出口王仁三郎は、自分は為朝だと言って、友人の持っていた鎮西八郎為朝の強弓をやすやすと引いた。

大正元年から3年初めにかけて出口王仁三郎は、毎日のように強弓を引き、百発百中だった。弓をやめた理由は、世界戦争の型出し(現界に先行して霊界でその事件を実現させるご神業)だと説明した。弓をやめてまもなく、大正3年に第一次世界大戦が発生。

出口王仁三郎は、皇族周辺にまで及ぶ信者8百万の大新興宗教教団を育成し、一夜にして(第二次大本教事件)壊滅せしめられた。これは、第二次世界大戦の型出しでもあり、今後の日本の型出しである。日本教の運命もそのようなものなのだろう。

だから「拝みたい者には、富士山でも造って拝ましたらよいでしょう」と、宗教も宗派もなき時代、万人が神知る時代を宣言している」。

為朝も出口王仁三郎も世界の掃除、立替立直しに先んじて係わったと見れる。

ムハンマドは、キリスト教の高級神霊ガブリエルに召命され、剣とコーランでせまるイスラム教で、東はインドから西は旧東ローマ帝国までを席捲し、難しい爛熟の時代に清新の風を入れた。

ムハンマドは、夜の旅で不思議な白馬で天国に運ばれたというが、これは出口王仁三郎の常用した筋斗雲を思わせる。

立替立直しには、破壊と復興の二相がある。破壊はノアで、復興はナオ。剣、弓など軍備で破壊して、再生の道筋をもつける。それが彼らのやり方なのだろう。

一般に終末予測、予言は破壊だけに終わりがちなものだが、復興の姿を描くものだけが真実に近いものだと思う。

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