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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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贅沢だったクリュニー修道院からシトー修道院へ

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◎清貧沈黙と諸悪莫作衆善奉行

古代ローマ市民がパンと見せものを要求したように、食べ物がほぼ充足した現代人は、手近に知的好奇心を満足するものと少々の不機嫌を治すものを求めて、TVやスマホやゲーム機を用いる。

一般に贅沢や奢侈と呼ばれるものは、当初物質的なものだったが、深化するにつれ、グルメやブランド商品など精神的な価値を求めることに移っていく。TVやスマホやゲーム機によって与えられるものは、情報という形で与えられる視聴覚刺激の奢侈なのだ。

今、万人を旧時代の最後の時期における求道者と見立てれば、物質面、観念面での贅沢にまみれた修道士のようなものだ。


11世紀ヨーロッパを席捲していたクリュニー修道院は、肉食を避けるため主菜の魚は2度出され、それで2度満腹となった。その時点で浴びるほど出されたワインで頭は眠る寸前となり、そこで詩篇を唱えたり、聖歌を歌うことはほとんど苦行だった。

そこには磨かれた大理石と見事な絵画の配された、有り余る広さと非常に高い天井の礼拝堂があり、それは人々の思念や無用の想像を刺激する。それは冥想を深めるのとは逆方向に作用する。

こうして奢侈にまみれたクリュニー修道院を反面教師として、ベルナールら21人の修道士が、1098年木造の粗末な修道院を立ち上げた。これがシトー修道院の始まり。そこでは聖ベネディクト会則に則った清貧、沈黙を旨とする修道生活が営まれた。

ところが、立ち上げ当初は、クリュニー主導の教会からシトー会修道士は、投獄、鞭打ち刑などを受け、世間からは白眼視されたという。

それにしても、キリスト教では、なぜスローガンが、悪事をせず善事を行う(諸悪莫作衆善奉行)でなく、清貧・沈黙なのだろうか。

厳しめに見れば人間は必ず悪事を行わなければ生存し得るものではないという見方をまず先にしなければ、キリスト教はやっていけなかったのだろうか。
仏教にもキリスト教にも懺悔はあるが、仏教寺院に告解室はなく、キリスト教会に告解室はある。

為した悪事は、告解することで他人に広めて新たな波紋を起こすべきものでなく、神仏に告解するなどで、心中見直し聞き直すことで解消される途がある。

為した悪事は、アカシックレコードに記録されるといえども、過去にさかのぼって抹消される途があることをわかっていた東洋の宗教と、輪廻転生がなく、死んでも一回の人生が最後の審判まで終われない人生観のキリスト教の違いと見るべきだろうか。

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