◎宗教なき冥想道
日本では焚書坑儒はなかったことになっている。
だが『日本神代文字 古代和字総観 吾郷清彦/著 大陸書房』を見ると日本の神代文字は、何十種にも及びそれを用いた文献は残っている。
何が世界文化遺産と言って、神代文字を世界文化遺産と言わない不思議。
敗戦後、日本が国力を盛り返してくる一方で、日本精神、大和魂の復興が手探りで試みられるようになったが、せいぜいが教育勅語の復興の動きなどであまり成功しているとは言い難い。何しろそれは国家神道という国家を挙げての戦争推進体制の一部だったのだからさもありなむ。
古事記にも原古事記があったであろうことは言われている。古事記の時代以前は日本には文字がなかったことになっているが、中国にもない神代文字が残されていることから、それは日本のとある時代に用いられていたものだろうと思う。
今東光が、声をひそめて聖徳太子朝鮮人説を唱えている。聖徳太子(574年-622年)は、仏教を日本で興隆せしめた大恩人であって、それほどの功績ある人物ならば、子孫は重用され、顕彰する絵画、尊像、文書が多数残っていてもよさそうなものである。
それがそうではなくて、本人を含めた一族抹殺の噂まである。
712年の古事記の出来た頃には、既に神代文字の原日本語について、ほぼ『日本にはもともとオリジナル文字はなかった』と広言できるほどに焚書坑儒が進んでいたのではないか。
その焚書を最初に唱えて主導したのは聖徳太子か。つまり聖徳太子没後90年の時点で、漢字の古事記が編まれたのではないか。
日本私紀などに神代文字があることは言及されている。
聖徳太子以前は古神道主導の日本教は隠然として存在していたが、それを為政者側が仏教にシフトさせるために、神代文字文書、学者、古神道修行者を体系的に焚書坑儒していったのではないか。
そうでなければ、日本では一族抹殺というようなことはあまりしないのだが、聖徳太子についてそれが行われた形跡があることは理解できないように思う。
聖者には組織宗教のトップタイプと遊戯者のタイプがある。ダンテス・ダイジは、聖徳太子を組織宗教のトップタイプに分類しているのだが、その聖徳太子にして、その反動を知りながら神代文字抹殺を為さしめた状況はどのようなものだったのだろうか。
聖徳太子没後の大物聖者として役小角(634年-701年)が出ている。古神道があまりにも抑圧されたので、その反動として登場したのだろうと思うが、その反攻策も表面的には成功したようには見えない。そして役行者没後に古事記編纂というタイミングは、一連の流れと思われる。
清明き古神道は、以後その命脈を保ちつつ、伊勢神宮を頂点として巷の祠(ほこら)まで残っていて滅んではいないが、国家神道の不幸な時代も出口王仁三郎がバランサーとして活動して戦後の古神道系新興宗教教団の隆盛につないだ。
そして今、宗教なき冥想道の時代が近づいている。
その前に新たな焚書坑儒もあるかも。
日本では焚書坑儒はなかったことになっている。
だが『日本神代文字 古代和字総観 吾郷清彦/著 大陸書房』を見ると日本の神代文字は、何十種にも及びそれを用いた文献は残っている。
何が世界文化遺産と言って、神代文字を世界文化遺産と言わない不思議。
敗戦後、日本が国力を盛り返してくる一方で、日本精神、大和魂の復興が手探りで試みられるようになったが、せいぜいが教育勅語の復興の動きなどであまり成功しているとは言い難い。何しろそれは国家神道という国家を挙げての戦争推進体制の一部だったのだからさもありなむ。
古事記にも原古事記があったであろうことは言われている。古事記の時代以前は日本には文字がなかったことになっているが、中国にもない神代文字が残されていることから、それは日本のとある時代に用いられていたものだろうと思う。
今東光が、声をひそめて聖徳太子朝鮮人説を唱えている。聖徳太子(574年-622年)は、仏教を日本で興隆せしめた大恩人であって、それほどの功績ある人物ならば、子孫は重用され、顕彰する絵画、尊像、文書が多数残っていてもよさそうなものである。
それがそうではなくて、本人を含めた一族抹殺の噂まである。
712年の古事記の出来た頃には、既に神代文字の原日本語について、ほぼ『日本にはもともとオリジナル文字はなかった』と広言できるほどに焚書坑儒が進んでいたのではないか。
その焚書を最初に唱えて主導したのは聖徳太子か。つまり聖徳太子没後90年の時点で、漢字の古事記が編まれたのではないか。
日本私紀などに神代文字があることは言及されている。
聖徳太子以前は古神道主導の日本教は隠然として存在していたが、それを為政者側が仏教にシフトさせるために、神代文字文書、学者、古神道修行者を体系的に焚書坑儒していったのではないか。
そうでなければ、日本では一族抹殺というようなことはあまりしないのだが、聖徳太子についてそれが行われた形跡があることは理解できないように思う。
聖者には組織宗教のトップタイプと遊戯者のタイプがある。ダンテス・ダイジは、聖徳太子を組織宗教のトップタイプに分類しているのだが、その聖徳太子にして、その反動を知りながら神代文字抹殺を為さしめた状況はどのようなものだったのだろうか。
聖徳太子没後の大物聖者として役小角(634年-701年)が出ている。古神道があまりにも抑圧されたので、その反動として登場したのだろうと思うが、その反攻策も表面的には成功したようには見えない。そして役行者没後に古事記編纂というタイミングは、一連の流れと思われる。
清明き古神道は、以後その命脈を保ちつつ、伊勢神宮を頂点として巷の祠(ほこら)まで残っていて滅んではいないが、国家神道の不幸な時代も出口王仁三郎がバランサーとして活動して戦後の古神道系新興宗教教団の隆盛につないだ。
そして今、宗教なき冥想道の時代が近づいている。
その前に新たな焚書坑儒もあるかも。