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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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死んでいながら十全に生きて愛する

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◎バウルの愛の歌

バウルは、ベンガル地方の家庭を持たない放浪詩人。神との合一を目的とする宗教歌を歌う。

『死んでいながら
依然として十全に生きている
しかも愛することの中にある
味覚と感覚を知る者たち
彼らは河を渡る
生と死の流れを見つめて
彼らは完成を探し求めている

彼らは幸福に対して
なんの願いも持たず
風にむかって歩いてゆく

彼らは情欲をもって情欲を殺す
そして愛着することなく
愛の都に入ってゆく・・・・・』
(バウル愛の歌 下巻/バグワンP310-311から引用)

『死んでいながら』とは、既に肉体と自己を同一と見ていないということ。既に自己とは個人の側でなく、全体のことだから、既に死の世界である。死の世界の一部が生の世界。死の世界である自己に立ち位置を置けば、愛を生きることなる。

その死の世界とは、想念と想念の隙間に存在する。そこに片足を入れることを『河を渡って生と死の流れを見つめて』という。そこで結合あるいは天国と地獄との結婚を目指す。

死とは、肉体を失って、霊体、個なる微細身になることを死と言っているわけではない。個なる自意識が死ぬことの方を『死』と言っている。個なる自意識が死んで初めて全体である自己である。それをここでは死と呼ぶ。

OSHOバグワンは、このことを、何が死で何が生かの理解が完璧になったらあなたは完全になる、などとさらっと流している。だが大半の人がわからないのではないか。

その理解を得て初めて
『彼らは幸福に対して
なんの願いも持たず
風にむかって歩いてゆく』
と言える。

『彼らは情欲をもって情欲を殺す
そして愛着することなく
愛の都に入ってゆく・・・・・』

バウルにとってそのメソッドはセックス・情欲である。だが、もう個が絶対でなくなった彼や彼女に、誰かへの愛着は貪欲でも所有欲でもなく、神の属性たる愛に転化していく。

でも一般にその道は、相当に難しいものだ。チベット密教のマルパのセクシュアル・メディテーションのパートナーは、ダクメーマ以下9人いたなどと言われるが、それは人数の問題ではなく、セックス冥想の修行は、もとより容易なものではなかろう。その営為は、一般社会からみれば反感を持たれがちなものであり、パートナーの女性の気持ちの問題もある。

OSHOバグワンは、特にパートナーの女性の気持ちには斟酌しない傾向があるように思う。

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