◎仮説から経験に進まないと人間に進化なし
OSHOバグワンの『般若心経』に七段の寺院のことが書いてある。
第一:肉体の寺院=ムラダーラ・チャクラ
人間を肉体として見る。パブロフ、スキナー、共産主義、マルクス主義、行動主義、無神論。人間の尊厳を見ず、モノと見る。
第二:精神身体の寺院=スワジスターナ・チャクラ
フロイトの夢判断レベル。人間は夢という無意識をセックスに還元できるのは、人生の一部にすぎない。何でも性欲由来ではない。
第三:心理の寺院=マニピュラ・チャクラ
アドラー、権力欲。人間をエゴ・トリップとし、すべてを劣等感に還元するが、それは人生の一部分。
第四:精神霊性の寺院:アナハタ・チャクラ
ユング、アサジョーリ。無意識と非合理のあることを認めてはいる。
OSHOバグワンは、この位置は七段あるうちのまだ真ん中、半端。そして何より、「仮説的」であって「経験的」ではないと批判している。実現の途中であがいているとも表現している。
第五:霊性の寺院:ヴィシュダ・チャクラ
イスラム教、ヒンドゥー経、キリスト教。あらゆる組織宗教、教会は、霊的なところで立ち往生する。組織宗教であるがゆえに教義的。
第六:霊性超越の寺院:アジュナ・チャクラ
ヨーガやその他の方法論。「教義的」を越え、身体や心で「経験する」ことで何かをする。
OSHOバグワンは、自分自身の中にハーモニーの雲を作り出し、それに乗って、情けない現実を超越するというような展望を語っているようだ。
第七:究極の寺院:サハスラーラ・チャクラ
タントラ、道(TAO)、禅、釈迦の道。
六つの身体を越え、ただの観照者、ただの純粋な主観性となる。
こうした分類が大好きな人は、ケン・ウィルバーの著作を見ればいくらでも出てくる。
さて、人間復興の名の下にルネッサンスが起きたが、それは神を殺す運動の始まりとなった。その結果、政治スター(スターリン、毛沢東等)、芸能スター(マリリン・モンロー、マイケル・ジャクソン等)、スポーツスター(ペレ、マラドーナ、メッシ等)、ブランド品など偽神が無数に作られた。
『人間がこれほどまでに落ちたのは
人間意識の歴史の中でもはじめてのことだ
しかも、たとえときたまあなたが神を思い出したとしても
それはただの空しい言薬にすぎない
苦しいときか欲求不満のときか知らないが
そんなときにしかあなたは神を使わない』
(般若心経/バグワン・シュリ・ラジネーシ/めるくまーるP30から引用)
読書メモ(参照:上掲書P16-30)になったが、第一身体から第七身体が並列で扱われるこの時代において、こうした整理は必要なものだ。
そして、仮説から経験に持っていくモチベーションを如何に自覚せしめるかが現代人全体のテーマとなっている。
OSHOバグワンの『般若心経』に七段の寺院のことが書いてある。
第一:肉体の寺院=ムラダーラ・チャクラ
人間を肉体として見る。パブロフ、スキナー、共産主義、マルクス主義、行動主義、無神論。人間の尊厳を見ず、モノと見る。
第二:精神身体の寺院=スワジスターナ・チャクラ
フロイトの夢判断レベル。人間は夢という無意識をセックスに還元できるのは、人生の一部にすぎない。何でも性欲由来ではない。
第三:心理の寺院=マニピュラ・チャクラ
アドラー、権力欲。人間をエゴ・トリップとし、すべてを劣等感に還元するが、それは人生の一部分。
第四:精神霊性の寺院:アナハタ・チャクラ
ユング、アサジョーリ。無意識と非合理のあることを認めてはいる。
OSHOバグワンは、この位置は七段あるうちのまだ真ん中、半端。そして何より、「仮説的」であって「経験的」ではないと批判している。実現の途中であがいているとも表現している。
第五:霊性の寺院:ヴィシュダ・チャクラ
イスラム教、ヒンドゥー経、キリスト教。あらゆる組織宗教、教会は、霊的なところで立ち往生する。組織宗教であるがゆえに教義的。
第六:霊性超越の寺院:アジュナ・チャクラ
ヨーガやその他の方法論。「教義的」を越え、身体や心で「経験する」ことで何かをする。
OSHOバグワンは、自分自身の中にハーモニーの雲を作り出し、それに乗って、情けない現実を超越するというような展望を語っているようだ。
第七:究極の寺院:サハスラーラ・チャクラ
タントラ、道(TAO)、禅、釈迦の道。
六つの身体を越え、ただの観照者、ただの純粋な主観性となる。
こうした分類が大好きな人は、ケン・ウィルバーの著作を見ればいくらでも出てくる。
さて、人間復興の名の下にルネッサンスが起きたが、それは神を殺す運動の始まりとなった。その結果、政治スター(スターリン、毛沢東等)、芸能スター(マリリン・モンロー、マイケル・ジャクソン等)、スポーツスター(ペレ、マラドーナ、メッシ等)、ブランド品など偽神が無数に作られた。
『人間がこれほどまでに落ちたのは
人間意識の歴史の中でもはじめてのことだ
しかも、たとえときたまあなたが神を思い出したとしても
それはただの空しい言薬にすぎない
苦しいときか欲求不満のときか知らないが
そんなときにしかあなたは神を使わない』
(般若心経/バグワン・シュリ・ラジネーシ/めるくまーるP30から引用)
読書メモ(参照:上掲書P16-30)になったが、第一身体から第七身体が並列で扱われるこの時代において、こうした整理は必要なものだ。
そして、仮説から経験に持っていくモチベーションを如何に自覚せしめるかが現代人全体のテーマとなっている。