◎言葉にできない教えの伝授
師事するということは、生活を共にするということで、善きにつけ悪しきにつけ、弟子は師の生活振りを目の当たりにする。それを下敷きにして師の拳骨があったり叱責があったり、アドバイスがあったりする。
釈迦も臨済義玄も著作は残さなかったが、言行録を弟子たちが残した。だがそれらの言葉は生ものであり、それを与えられた時、所、シチュエイションと本人に対する言葉であって、後世の言行録の読者のために正解である言葉ではない。
よって後世の読者が言行録を読むと、非常に誤解が起きやすく、その誤解によって、奇行、悪行を積み重ね人生を回り道するケースも出てくる。
覚醒は言葉で表現できないが、覚者たる師匠と日常を共にすることで自ずと師の全容を感じ取り、言葉によるアドバイス以外のものを覚知することができる。師事というものは大切なものである。
古代インドのナロパは当時のインド四大碩学の一人だったが、偉大なティロパの噂を聞き、1年かけて彼が漁村にいることをつきとめた。現地につくと、ティロパは川で漁もせず、漁師の捨てた魚の頭やはらわたを貰って食べているという。
以後12年師事するが、その間祝祭日にナロパは盗みを犯し村人に手足を折られたり、川に入って全身をヒルに覆われながら数日を耐えたりした。
そうして12年後の最後の日、ナロパはティロパにサンダルで思いっきり顔を殴られた瞬間に大悟覚醒した。
ティロパは、棒でも喝でもなくサンダルだったが、それが彼の教えのすべてと誤解されるようなことはあるものだ。
当たり前のことだが、全体が見えないと正しくは解らない。でも最後は言葉では伝えられない何かも残る。その欠片あるいは気配を追っていけば、チャンスが来ることもあるし、それに気がつかないこともあるのだろう。
それでも日々冥想を。
師事するということは、生活を共にするということで、善きにつけ悪しきにつけ、弟子は師の生活振りを目の当たりにする。それを下敷きにして師の拳骨があったり叱責があったり、アドバイスがあったりする。
釈迦も臨済義玄も著作は残さなかったが、言行録を弟子たちが残した。だがそれらの言葉は生ものであり、それを与えられた時、所、シチュエイションと本人に対する言葉であって、後世の言行録の読者のために正解である言葉ではない。
よって後世の読者が言行録を読むと、非常に誤解が起きやすく、その誤解によって、奇行、悪行を積み重ね人生を回り道するケースも出てくる。
覚醒は言葉で表現できないが、覚者たる師匠と日常を共にすることで自ずと師の全容を感じ取り、言葉によるアドバイス以外のものを覚知することができる。師事というものは大切なものである。
古代インドのナロパは当時のインド四大碩学の一人だったが、偉大なティロパの噂を聞き、1年かけて彼が漁村にいることをつきとめた。現地につくと、ティロパは川で漁もせず、漁師の捨てた魚の頭やはらわたを貰って食べているという。
以後12年師事するが、その間祝祭日にナロパは盗みを犯し村人に手足を折られたり、川に入って全身をヒルに覆われながら数日を耐えたりした。
そうして12年後の最後の日、ナロパはティロパにサンダルで思いっきり顔を殴られた瞬間に大悟覚醒した。
ティロパは、棒でも喝でもなくサンダルだったが、それが彼の教えのすべてと誤解されるようなことはあるものだ。
当たり前のことだが、全体が見えないと正しくは解らない。でも最後は言葉では伝えられない何かも残る。その欠片あるいは気配を追っていけば、チャンスが来ることもあるし、それに気がつかないこともあるのだろう。
それでも日々冥想を。