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ゾーハルと源泉の光

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◎原人間は世界の始まりから終りまでを見た

ユダヤ教の聖典ゾーハルから
『源泉の光―――仲介者

「神は言った。『光あれ』。すると光があるだろう」。発話には必ずそれが向けられる相手がいる。もとより、最初の「あれ」は現世に、二番目の「ある」は来世に発せられている。

これこそ至聖が原始に創造した光であり、源泉の光と呼ばれるものである。至聖はこの光を原人間に見せ、原人間はそのなかで世界の始まりから終りまでを見た。

同様にダビデにも見せられた。ダビデはこれを詩篇のなかで次のような言葉で告白している。「あなたがあなたを畏れる者たちのために宝としてしまっておかれたあなたの恵みはなんと豊かなのでしょう」(詩篇31・20)。

同様にモーセにも見せられた。彼はそのなかでギルアド〔ヨルダン川東岸のヤルムク川とヤボク川に挟まれた山地〕からダン〔上部ガリラヤの町〕までを見ることができた。』
(ゾーハル カバラーの聖典 叢書・ウニベルシタス 976/エルンスト・ミュラー/編訳/法政大学出版局P49から引用)

至聖なる神が『光あれ』と言ったら、源泉の光がある。源泉の光は原始の光のことであり、原人間は、源泉の光の中で世界の始まりから終りまでを見た。

原人間は、男女両性具有であり、好き嫌い、二元の違いを超えているのだから既に時間のない世界において、原始の光を見ている。
そこに現世の光、来世の光と区分されて描かれるのは、自分自身で『源泉の光』を見て見よということなのだろうと思う。

引き続いて、ダビデはこう見た、モーセはこう見たなどとことさらに書いているが、それも根本には自分自身で『源泉の光』を見て見よということだろう。

原始の光、原初の光は、チベット死者の書の死のプロセスにも出てくるのだが、それがどういうものかの説明は、チベット死者の書でもあまりない。

原人間は、個である限りは、七つの身体論で言えばコーザル体だが、世界の始まりから終りまでを見たというからには、神人合一体験を経た者と位置づけられるように思う。神をチラ見しただけでは、原人間とまでは言えない。

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