◎ダンマパダ法句経
『老いの章
一四六
何の笑いぞ 何の喜びぞ 常に燃えつつあるに
汝らは暗黒に覆われて 燈明を求めざるや
一四七
見よ飾り立てられし形体を そは傷だらけの身にて 合成されしもの
病めるもの 思い多きものにして そこには堅固も永続もあることなし
一四八 このいろかたちは 衰えはて 病の巣窟にして壊れやすし
腐れる身は滅び去る 生は死に終わればなり
一四九 秋に投げ棄てられたる かの瓢箪のごとき
これら灰白色の骨を見て 何の喜びかあらん』
(原始仏典 7 [ブッダの詩] 梶山雄一/[ほか]編集委員 講談社P32から引用)
釈迦の厭世的人生観と言われる生老病死。これは、学業や就職が順調に行っている若い人にはあまり説得力はないものだ。だから不浄観など無理に人生の裏面を見せて厭世的人生観に追い込むような行法すらある。だが人生の早い時期に人生の裏面を見せるのは、人によって早すぎることもあれば、無用なこともあって、とても万人にとって善いことかどうかは疑問なところがある。
かの臨済禅中興の祖の白隠が、幼少の頃地獄絵を見せられて、その恐怖感が、長じても消えなかったという例もある。
厭世感、人生の将来に対する漠然とした不安、そうしたものが、このダンマパダの詩にある不滅の生、永遠の命を求めることに転換するには、自分が死と正面から向きあう段階にならないといけないのではないか。
仏教の入り口はそこであって、幼少の頃から道心があって、若くして悟りに至るのは、しばしば両親早逝の星の下に生まれた者であるのは偶然ではない。
だが時代全体の何パーセントかが一斉に覚醒するというのは、そこまで自分自身に向き合う練習が普段からできた者が何パーセントかいる時代ということである。そうなる背景に、それほど生活苦と前途に希望がないということもあろう。そして冥想という習慣が根づいていなければならない
覚醒に至るメソッドは、厭世を入口とする仏教だけではないが、21世紀でも大勢力の仏教のこうしたメカニズムには、他の宗派にも共通に見られる特徴があることも承知しておくべきだろう。
近代西欧文明は、ことさらに死を無視する心性が特徴であって、その点は釈迦とは対照的である。
『老いの章
一四六
何の笑いぞ 何の喜びぞ 常に燃えつつあるに
汝らは暗黒に覆われて 燈明を求めざるや
一四七
見よ飾り立てられし形体を そは傷だらけの身にて 合成されしもの
病めるもの 思い多きものにして そこには堅固も永続もあることなし
一四八 このいろかたちは 衰えはて 病の巣窟にして壊れやすし
腐れる身は滅び去る 生は死に終わればなり
一四九 秋に投げ棄てられたる かの瓢箪のごとき
これら灰白色の骨を見て 何の喜びかあらん』
(原始仏典 7 [ブッダの詩] 梶山雄一/[ほか]編集委員 講談社P32から引用)
釈迦の厭世的人生観と言われる生老病死。これは、学業や就職が順調に行っている若い人にはあまり説得力はないものだ。だから不浄観など無理に人生の裏面を見せて厭世的人生観に追い込むような行法すらある。だが人生の早い時期に人生の裏面を見せるのは、人によって早すぎることもあれば、無用なこともあって、とても万人にとって善いことかどうかは疑問なところがある。
かの臨済禅中興の祖の白隠が、幼少の頃地獄絵を見せられて、その恐怖感が、長じても消えなかったという例もある。
厭世感、人生の将来に対する漠然とした不安、そうしたものが、このダンマパダの詩にある不滅の生、永遠の命を求めることに転換するには、自分が死と正面から向きあう段階にならないといけないのではないか。
仏教の入り口はそこであって、幼少の頃から道心があって、若くして悟りに至るのは、しばしば両親早逝の星の下に生まれた者であるのは偶然ではない。
だが時代全体の何パーセントかが一斉に覚醒するというのは、そこまで自分自身に向き合う練習が普段からできた者が何パーセントかいる時代ということである。そうなる背景に、それほど生活苦と前途に希望がないということもあろう。そして冥想という習慣が根づいていなければならない
覚醒に至るメソッドは、厭世を入口とする仏教だけではないが、21世紀でも大勢力の仏教のこうしたメカニズムには、他の宗派にも共通に見られる特徴があることも承知しておくべきだろう。
近代西欧文明は、ことさらに死を無視する心性が特徴であって、その点は釈迦とは対照的である。