◎ダンマパダ法句経
ダンマパダ法句経は、釈迦自身の言葉に最も近い経典の一つとされ、珍重されている。だが、現代語訳を見ると訳者によって全く異なる訳文が出て来て、古代インド語ってこんなものかと面食らうことがある。
尊敬すべき人とは、阿羅漢のことで、最低でも本当の自分を見たり感じたりした人のことで、禅の十牛図で言えば、第三図以上の人。今の時代は、第三図程度の見神見仏者でも立派にグル、師匠が勤まる時代。
『尊敬すべき人の章
九〇
すでに道を歩み終え 憂いを離れ あらゆる点に解脱し
すべての束縛を断ち切れる人には 苦悩あることなし
九一
思念をこらす人びとは 努め励む かれらは家にあるを喜ばず
白鳥の 池を捨てて飛び立つがごとく かれらは それぞれの家を捨つ
九二
蓄うることなく 食物につきてあまねく知り
空にして無相なる解脱が その人びとの心境ならば
かれらの行く道は 空飛ぶ鳥の道に似て 追跡し難し
九三
煩悩ことごとく滅尽し また食物につきてとらわれず
空にして無相なる解脱が その人の心境ならば
かれの足跡は 空飛ぶ鳥の足跡に似て 追跡し難し』
(原始仏典 7 [ブッダの詩] 梶山雄一/[ほか]編集委員 講談社P21から引用)
ここで釈迦は、解脱を第六身体アートマンなる全体との合一と見ている。
家を出ることを人生上のビッグイベントと見ているが、今のようにお一人様でも金さえあれば生きていける時代ではなかったのだろう。出家とは逆戻りの出来ない不退転の進路だったのだろう。
突然食べ物のことが二度も繰り返し出てくる。つい三、四十年前は、朝握ったおにぎりは、夏場なら昼には腐りかけ、リンゴも皮をむけばしばらく経てば茶色くなったものだ。いわんや亜熱帯地域での食物をや。そこで食物を蓄えたいと思うだろうが、そこにこだわってはいけないのだ、と。
『空にして無相なる解脱が云々』が二度繰り返されている。こういう繰り返しは、ウパニシャッドやヴェーダでは出てくるものであって、釈迦もそんな時代の文章を読んで育ったのだなあと思う。
空にして無相なる解脱は、第六身体アートマンのレベルだが、そうなれば彼は天機、天意を生きるだけなので、『かれの足跡は 空飛ぶ鳥の足跡に似て 追跡し難し』。
人間としての転生は、その後ないかもしれないのだ。
ダンマパダ法句経は、釈迦自身の言葉に最も近い経典の一つとされ、珍重されている。だが、現代語訳を見ると訳者によって全く異なる訳文が出て来て、古代インド語ってこんなものかと面食らうことがある。
尊敬すべき人とは、阿羅漢のことで、最低でも本当の自分を見たり感じたりした人のことで、禅の十牛図で言えば、第三図以上の人。今の時代は、第三図程度の見神見仏者でも立派にグル、師匠が勤まる時代。
『尊敬すべき人の章
九〇
すでに道を歩み終え 憂いを離れ あらゆる点に解脱し
すべての束縛を断ち切れる人には 苦悩あることなし
九一
思念をこらす人びとは 努め励む かれらは家にあるを喜ばず
白鳥の 池を捨てて飛び立つがごとく かれらは それぞれの家を捨つ
九二
蓄うることなく 食物につきてあまねく知り
空にして無相なる解脱が その人びとの心境ならば
かれらの行く道は 空飛ぶ鳥の道に似て 追跡し難し
九三
煩悩ことごとく滅尽し また食物につきてとらわれず
空にして無相なる解脱が その人の心境ならば
かれの足跡は 空飛ぶ鳥の足跡に似て 追跡し難し』
(原始仏典 7 [ブッダの詩] 梶山雄一/[ほか]編集委員 講談社P21から引用)
ここで釈迦は、解脱を第六身体アートマンなる全体との合一と見ている。
家を出ることを人生上のビッグイベントと見ているが、今のようにお一人様でも金さえあれば生きていける時代ではなかったのだろう。出家とは逆戻りの出来ない不退転の進路だったのだろう。
突然食べ物のことが二度も繰り返し出てくる。つい三、四十年前は、朝握ったおにぎりは、夏場なら昼には腐りかけ、リンゴも皮をむけばしばらく経てば茶色くなったものだ。いわんや亜熱帯地域での食物をや。そこで食物を蓄えたいと思うだろうが、そこにこだわってはいけないのだ、と。
『空にして無相なる解脱が云々』が二度繰り返されている。こういう繰り返しは、ウパニシャッドやヴェーダでは出てくるものであって、釈迦もそんな時代の文章を読んで育ったのだなあと思う。
空にして無相なる解脱は、第六身体アートマンのレベルだが、そうなれば彼は天機、天意を生きるだけなので、『かれの足跡は 空飛ぶ鳥の足跡に似て 追跡し難し』。
人間としての転生は、その後ないかもしれないのだ。