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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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法華経と二重のリアリティ

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◎法華経を棄てる人、観音経を誦する人

今も釈迦在世の昔も、本当にアップダウンのある冥想修行に一定期間打ち込むためには、衣食住の生活がある程度しっかりしていないといけない。
だから宗教は昔から旦那衆(良家の子女)の道楽の一種などとも言われてきた。

法華経全体を見ると、カースト制度の縛りがきつく貧富の差の大きい古代インドでは、どうしても豊かな階層の子弟しかニルヴァーナに届かないという見方から、極貧でも囚人でもいつでもどんな階層でもニルヴァーナに届くという見方を示したという方向性が見える。

要するに20世紀のアクアリアン・エイジの人々のような誰でも何でもアセンションが当たり前という見方に至るためには、その前段として、法華経のように宗教奥義、大悟のテクニックの大衆化の宣言が為されねばならなかったのである。

日本で最初に法華経重視をしたのは、聖徳太子。聖武天皇・光明皇后の国分寺・国分尼寺は、法華経を奉じた。最澄は比叡山延暦寺に法華経を奉じる天台宗を開いた。
空海も法華経開題を著し、平安時代は、紫式部、赤染衛門など上流階級を法華経が風靡した。

道元の正法眼蔵には法華経の引用が多く、白隠、良寛も法華経を重視、日蓮も法華経の行者と言われた。

ところで法華経の経典は読んだことがなくても、何か願い事を観音様にお願いすれば叶えてくれることは皆知っている。

そこで、法華経の観世音菩薩普門品(観音経)を改めて読んでみると、例えば、剣を持った人に取り囲まれても、囚われて手かせ足かせをつけられて牢屋にいようとも、コロナのような悪疫に感染しようとも、彼の観音力を念じれば、こうした困難から脱出することができるなどと書いてある。

観世音菩薩普門品の冒頭に、観世音菩薩の名を聞くだけで、聞いた衆生はすべての苦から解放されるなどと書いてある。
だが人間は、人間である限り、すべての苦から解放されることなどないのは、ごく当たり前のこと。ここに二重のリアリティが見てとれる。

それを想像することすらできなければ、法華経などお伽話に過ぎないとばかばかしさに気づいたり(白隠)、何でも願望が叶うならと何度もひたすら観世音菩薩普門品を読誦したりするものだ。

だが、二重のリアリティは論理的な説明はできない。それがこの世である。

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