◎人が神仏になることとの不連続
宗教体験の極みを、イエスを見た、釈迦を見たということに収斂すれば、却って真相がわからなくなるということがある。
イエスも釈迦も大悟する直前にこの世のすべてを与えるみたいな誘惑を受けたが、それを退けた。つまり天国に進むことでは納得しなかったのだ。
この点は結構重要なポイントで、世界が実体のない夢や幻のようなものであることを実体験する(色即是空)ということは、天国も夢や幻、地獄もかげろうのようなものであるとわかるということ。
その時点で、自己実現だ、願望成就だなどというこの世的な指向は意味を為さなくなるということは想像できる。
だからその次の段階だとされる、宇宙全体と自分の合一、神化、神人合一、入我我入を希望するなどの気持ちは論理的には発生するものではないと思う。
宗教的経験とは、実は天国と地獄の先こそ本当のゴールであって、この辺が義務教育と大学受験準備だけに費やした青少年では、わからないのではないか。
40年以上前の自分もわからなかったし、その解答、解法を聞いていたのだろうが、理解できたという感覚もなかった。
只管打坐、クンダリーニ・ヨーガ、観想法、マントラ禅、鎮魂帰神、ソーマ・ヨーガ、カーマ・ヨーガなど様々な行法があり、そのすべてが天国指向でなく、天国を超えたものを狙っている。
当時高校の授業で、倫理社会というのがあり、僧籍のある先生が、道元の説明をするのに、「眼は横、鼻は縦についていた」と悟って中国から日本に帰国してきたとやった。
私は、当然何のことかわからなかったが、当時愛読していた岩波文庫の荘子内篇に照らしても想像もつかなかった。受験苦にあっては、その地獄から抜け出すので精一杯ではあったのではあるが・・・。
恵子(けいし)が、荘子に対して、無用の用を説くのだが、無用とは、世界全体のことであって、世界全体が夢幻、実体のないものであることを「無用」と説いているのであれば、自分が生きていることは、無用の用と言うしかないと気づいたのは最近のことだった。
小学校三年の頃、近所の浄土系檀家の家で、善光寺縁起か何かの地獄めぐりの漫画を見て非常に恐ろしい思いをした。かの禅中興の白隠も幼少時には似たような地獄に恐怖する体験があった。
キリスト教では最後の審判が明日にでもやって来るような講話をして聴衆を震え上がらせることがある。
そうしたものは、広義の現世利益であって、いつかはそれをも卒業していかなければならない。
現代人の信仰が、現世利益、勧善懲悪など広義の天国指向に留まるかぎり、至福千年は遠いのではないか。ただし人は善に生きねばならない、衆善奉行、諸悪莫作。
世にはびこるネガティブ予言に怖れおののくよりは、まず、人が神仏になるなどというおよそ学校で教えず、マスコミにも出ないことを大真面目に考えてみたほうが善いのではないかと思う。
宗教体験の極みを、イエスを見た、釈迦を見たということに収斂すれば、却って真相がわからなくなるということがある。
イエスも釈迦も大悟する直前にこの世のすべてを与えるみたいな誘惑を受けたが、それを退けた。つまり天国に進むことでは納得しなかったのだ。
この点は結構重要なポイントで、世界が実体のない夢や幻のようなものであることを実体験する(色即是空)ということは、天国も夢や幻、地獄もかげろうのようなものであるとわかるということ。
その時点で、自己実現だ、願望成就だなどというこの世的な指向は意味を為さなくなるということは想像できる。
だからその次の段階だとされる、宇宙全体と自分の合一、神化、神人合一、入我我入を希望するなどの気持ちは論理的には発生するものではないと思う。
宗教的経験とは、実は天国と地獄の先こそ本当のゴールであって、この辺が義務教育と大学受験準備だけに費やした青少年では、わからないのではないか。
40年以上前の自分もわからなかったし、その解答、解法を聞いていたのだろうが、理解できたという感覚もなかった。
只管打坐、クンダリーニ・ヨーガ、観想法、マントラ禅、鎮魂帰神、ソーマ・ヨーガ、カーマ・ヨーガなど様々な行法があり、そのすべてが天国指向でなく、天国を超えたものを狙っている。
当時高校の授業で、倫理社会というのがあり、僧籍のある先生が、道元の説明をするのに、「眼は横、鼻は縦についていた」と悟って中国から日本に帰国してきたとやった。
私は、当然何のことかわからなかったが、当時愛読していた岩波文庫の荘子内篇に照らしても想像もつかなかった。受験苦にあっては、その地獄から抜け出すので精一杯ではあったのではあるが・・・。
恵子(けいし)が、荘子に対して、無用の用を説くのだが、無用とは、世界全体のことであって、世界全体が夢幻、実体のないものであることを「無用」と説いているのであれば、自分が生きていることは、無用の用と言うしかないと気づいたのは最近のことだった。
小学校三年の頃、近所の浄土系檀家の家で、善光寺縁起か何かの地獄めぐりの漫画を見て非常に恐ろしい思いをした。かの禅中興の白隠も幼少時には似たような地獄に恐怖する体験があった。
キリスト教では最後の審判が明日にでもやって来るような講話をして聴衆を震え上がらせることがある。
そうしたものは、広義の現世利益であって、いつかはそれをも卒業していかなければならない。
現代人の信仰が、現世利益、勧善懲悪など広義の天国指向に留まるかぎり、至福千年は遠いのではないか。ただし人は善に生きねばならない、衆善奉行、諸悪莫作。
世にはびこるネガティブ予言に怖れおののくよりは、まず、人が神仏になるなどというおよそ学校で教えず、マスコミにも出ないことを大真面目に考えてみたほうが善いのではないかと思う。