◎只管打坐
ダンテス・ダイジの四つのパーフェクトの第三のパーフェクトの本文。
『自己と世界とを完全に透明にして色即是空・空即是色
あるいは、絶対無限慈悲・慈悲即絶対無。』
(出典:アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP8)
ダンテス・ダイジは、道元のことが大好きで、正法眼蔵も相当に読みこんでいた形跡がある。
道元の正法眼蔵第二巻摩訶般若波羅蜜の冒頭。般若心経の冒頭を引く。
『観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色受想行識なり、五枚の般若なり。照見これ般若なり。この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空是空なり。百草なり。万象なり。』
(大意:観自在菩薩が、智慧の完成を目指し一生懸命修行をする時、その姿全体を構成する五要素を観照したらすべてが空だった。五蘊は、色受想行識という五枚の智慧である。観照とは智慧だった。この理屈を展開すると、現象とは空であり、空とは現象であり、現象とは現象であり、空とは空である。だから、もろもろの草であり、無数の出来事や形象の姿である。)
我々の日常感覚では、現象とは現象であり、転変極まりない空とは空である。だがすべての現象が空であり、すべての空が現象であると観じた瞬間に、現象も変化する空も等価となる。この時点で、現象とは現象であり、空とは空であると言える。
ダンテス・ダイジの第三のパーフェクトのヒントは、
『霊身心一如から生死一如にいたる
色即是空は空即是色となり
色是色・空是空として
永遠の未完結を完結する』
(上掲書P38から引用)
まず霊身心と三分。霊と身はわかるが、ことさらに心を分離しているのは、観照を意識しているのだろう。
只管打坐の窮極である身心脱落を『体験』して後、霊身心一如から生死一如と言ってみせる。
空が日常感覚となって初めて空即是色と言えるのだろう。そこで無限の慈悲だけがあり、それは絶対無だけでもあると謂う。
色なる日常は実体のない夢幻たる空であるという現実に生きれば、社会生活はできないが、それこそ日常の現実そのものであるという二律排反。
かたやそれを肯定して踏み込めば、色是色・空是空という正反対の極に逆戻り。
易経六十四卦の最後は、水火既済と火水未済で終わるが、『永遠の未完結を完結する』とはそういうものだろう。
有用性と無用性は、深く結びついて離れがたく、片方だけでは成立しない。
※観照あるいは観察:
『覚者には、観察だけがある。思考は死んでいる。』(OSHOバグワン)
『根本無明の演戯がなければ神は神自体を観照することができぬ』
(ダンテス・ダイジ)
『解放に至るには、自分はこのすべてを観照する意識であると知りなさい。』(アシュタヴァクラ)
『瞑目したまま、人、動物、風景、練り歩く群衆など、自分の思いや感覚とはまったく無関係な主観映像が現れてくるのを見守る。』(チベット密教)
『思考の動きを観照する。これは、クリシュナムルティが『無選択の気づき』と呼んだもの。思考を観照し続ければ、ある日思考の速度が落ち、隙間が現れ始め、無思考となる。』(OSHOバグワン)
ダンテス・ダイジの四つのパーフェクトの第三のパーフェクトの本文。
『自己と世界とを完全に透明にして色即是空・空即是色
あるいは、絶対無限慈悲・慈悲即絶対無。』
(出典:アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP8)
ダンテス・ダイジは、道元のことが大好きで、正法眼蔵も相当に読みこんでいた形跡がある。
道元の正法眼蔵第二巻摩訶般若波羅蜜の冒頭。般若心経の冒頭を引く。
『観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色受想行識なり、五枚の般若なり。照見これ般若なり。この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空是空なり。百草なり。万象なり。』
(大意:観自在菩薩が、智慧の完成を目指し一生懸命修行をする時、その姿全体を構成する五要素を観照したらすべてが空だった。五蘊は、色受想行識という五枚の智慧である。観照とは智慧だった。この理屈を展開すると、現象とは空であり、空とは現象であり、現象とは現象であり、空とは空である。だから、もろもろの草であり、無数の出来事や形象の姿である。)
我々の日常感覚では、現象とは現象であり、転変極まりない空とは空である。だがすべての現象が空であり、すべての空が現象であると観じた瞬間に、現象も変化する空も等価となる。この時点で、現象とは現象であり、空とは空であると言える。
ダンテス・ダイジの第三のパーフェクトのヒントは、
『霊身心一如から生死一如にいたる
色即是空は空即是色となり
色是色・空是空として
永遠の未完結を完結する』
(上掲書P38から引用)
まず霊身心と三分。霊と身はわかるが、ことさらに心を分離しているのは、観照を意識しているのだろう。
只管打坐の窮極である身心脱落を『体験』して後、霊身心一如から生死一如と言ってみせる。
空が日常感覚となって初めて空即是色と言えるのだろう。そこで無限の慈悲だけがあり、それは絶対無だけでもあると謂う。
色なる日常は実体のない夢幻たる空であるという現実に生きれば、社会生活はできないが、それこそ日常の現実そのものであるという二律排反。
かたやそれを肯定して踏み込めば、色是色・空是空という正反対の極に逆戻り。
易経六十四卦の最後は、水火既済と火水未済で終わるが、『永遠の未完結を完結する』とはそういうものだろう。
有用性と無用性は、深く結びついて離れがたく、片方だけでは成立しない。
※観照あるいは観察:
『覚者には、観察だけがある。思考は死んでいる。』(OSHOバグワン)
『根本無明の演戯がなければ神は神自体を観照することができぬ』
(ダンテス・ダイジ)
『解放に至るには、自分はこのすべてを観照する意識であると知りなさい。』(アシュタヴァクラ)
『瞑目したまま、人、動物、風景、練り歩く群衆など、自分の思いや感覚とはまったく無関係な主観映像が現れてくるのを見守る。』(チベット密教)
『思考の動きを観照する。これは、クリシュナムルティが『無選択の気づき』と呼んだもの。思考を観照し続ければ、ある日思考の速度が落ち、隙間が現れ始め、無思考となる。』(OSHOバグワン)