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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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石鞏が牛の番をする

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◎草から顔を離して酒徳利に向ける

石鞏は、もともと猟師だったが、馬祖に出会ったことで、出家して冥想修行に入った。
ある日石鞏が台所で働いていたところに馬祖がやってきて、何をやっているのかと問うた。
石鞏「牛の番をしています。」
馬祖「どうやって番をするのだ。」
石鞏「牛が草に顔を戻そうとしたら、鼻づらをぐっと引いて引き戻すのです。」
馬祖「なるほどお前は牛の本当の番の仕方を知っている。」

牛の食べる草は、世俗。牛を内なる光輝にぐいっと向けさせるのだ。

牛と言えば十牛図タロットカードの大アルカナ22枚も西洋の十牛図だとOSHOバグワンは言う。
十牛図第十図は、手に酒徳利を下げて街を歩くという図柄だが、人が仏性とともに生きる時、まさにその酩酊が起こる。

『この酩酊・・・・・
ところで、私はそれが人類が麻薬やアルコールから抜け出す唯一の可能性だと言いたい。なぜなら、そういったものは生のまさに源泉において起こる酩酊の純粋性と比べたら、実にありきたりのものでしかないからだ。それと比較できるものは何もない。

それはあなたを高みへと連れ去り、あなたにとてつもない幸福感を与える――――それは幻覚ではない――――しかも長続きする。麻薬のようにさらにさらに多くの量を摂らねばならなくなり、それに中毒するということはない。

あなたは甘露そのものになり、あなたは多幸症に、歓喜(エクスタシー)そのものになる。ほかには何もいらない。ただ自らの仏性を思い出すだけで、日々の生活をこの上ない歓喜に満ちて生きるには充分だ。』
(空っぽの鏡・馬祖/Osho/壮神社P181-182から引用)

人が内なる光輝、仏性を思い出しつつ生きれば、このような酩酊、憧憬が必ずあるものであって、彼らの言行録には稀に出てくる。ただそれはストレートに出せば、悟りはイッテいる感覚だと短絡的な誤解を生じさせるので、慎重に出されるものであるが、聖者、覚者たちのそれへの裏付けはそこにもあるものだ。

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