◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-4
ダンテス・ダイジは、頭頂から離脱し、一直線に金色の光線となって、第六身体を通過して、第七身体である中心太陽に突入する。そしてありとあらゆるものそれ自身となる。
『私は、すべてを見た。 それは、私の最初にして最後の個別性であった。
さて、私であるところの一つながりの光線は、第七番目の究極の中心光明へと連なっていた。私は、その第七番目、つまり中心太陽の只中に突入した。
何と表現したらよいのだろうか?
私は終って・・・・・
私はもともとなく、ありとあらゆる戯れそれ自身だ。
・・・・・これは、詩的表現ではない!
私は、ありとあらゆるものそれ自身だ。
ニルヴァーナと、一本の鼻毛とは同じそれ自身だ。
あいうえおは、ニルヴァーナだ。
ニルヴァーナは、オナラ・ブーだ。
スモッグは、 ニルヴァーナだ・・・・・
このことを、断じて理解し、自分勝手に納得するなかれ! 咄!!』
(「ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ」P73-74から引用)
『私は、すべてを見た。』では、見ている自分が残っているからまだ個人のまま。だが、最後の個別性ではある。
『私はもともとなく』は、第七身体ニルヴァーナ。
『私は、ありとあらゆるものそれ自身だ。』は、第六身体アートマン。第六と第七が並置されているのが謎。ウパニシャッドで、アートマンとブラフマンを説明なく並置しているのと同じ意図か。
この前段で『クンダリニーとは、ニルヴァーナがマーヤーを仮現せしめるための一直線の光り輝くエネルギーのことなのだ。』
(上掲書P73から引用)
と示しているのだが、その意味は全容が判明してからわかる。
そして実体験なく勝手にわかった気分になってはいけないし、行法も試したりしてはならないと、ダンテス・ダイジは終始戒める。昨今の知的レベルの高い現代人は、理屈でわかってからでないと行動に移さない性向が強いが、敢えてそう言わざるを得ないほど、邪教カルトを作ったり、自分自身を毀損したりなど無数の失敗例があるからなのだろう。
◎冥想の効用のない部分、ある部分-6
◎冥想の効用のない部分-5
ダンテス・ダイジは、頭頂から離脱し、一直線に金色の光線となって、第六身体を通過して、第七身体である中心太陽に突入する。そしてありとあらゆるものそれ自身となる。
『私は、すべてを見た。 それは、私の最初にして最後の個別性であった。
さて、私であるところの一つながりの光線は、第七番目の究極の中心光明へと連なっていた。私は、その第七番目、つまり中心太陽の只中に突入した。
何と表現したらよいのだろうか?
私は終って・・・・・
私はもともとなく、ありとあらゆる戯れそれ自身だ。
・・・・・これは、詩的表現ではない!
私は、ありとあらゆるものそれ自身だ。
ニルヴァーナと、一本の鼻毛とは同じそれ自身だ。
あいうえおは、ニルヴァーナだ。
ニルヴァーナは、オナラ・ブーだ。
スモッグは、 ニルヴァーナだ・・・・・
このことを、断じて理解し、自分勝手に納得するなかれ! 咄!!』
(「ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ」P73-74から引用)
『私は、すべてを見た。』では、見ている自分が残っているからまだ個人のまま。だが、最後の個別性ではある。
『私はもともとなく』は、第七身体ニルヴァーナ。
『私は、ありとあらゆるものそれ自身だ。』は、第六身体アートマン。第六と第七が並置されているのが謎。ウパニシャッドで、アートマンとブラフマンを説明なく並置しているのと同じ意図か。
この前段で『クンダリニーとは、ニルヴァーナがマーヤーを仮現せしめるための一直線の光り輝くエネルギーのことなのだ。』
(上掲書P73から引用)
と示しているのだが、その意味は全容が判明してからわかる。
そして実体験なく勝手にわかった気分になってはいけないし、行法も試したりしてはならないと、ダンテス・ダイジは終始戒める。昨今の知的レベルの高い現代人は、理屈でわかってからでないと行動に移さない性向が強いが、敢えてそう言わざるを得ないほど、邪教カルトを作ったり、自分自身を毀損したりなど無数の失敗例があるからなのだろう。
◎冥想の効用のない部分、ある部分-6
◎冥想の効用のない部分-5