◎世界宗教でも信者全員の悟りを求められる時代。
最近は本屋でクリシュナムルティ本を見かけることも少なくなった。クリシュナムルティを囲む一団を神智学徒と呼ぶが、かの今東光の父親が、日本で最初期の神智学徒であったことは知らなかった。
クリシュナムルティは、リードビーターなどによってインドで発見され、マイトレーヤ=ミロク菩薩の乗り物として自分の肉体を明け渡すということを予定されていた。つまりクリシュナムルティには彼固有の微細身がありながら、ミロク菩薩の微細身を同居させるという実験台にさせられようとした。
一つの肉体に複数の霊(微細身)というのは、その後いろいろな話を読んできた中であり得るとは思っている。だが一つの肉体に複数の霊という形式で弥勒出生、弥勒再誕を現実化させようというのは、大胆ではあるがいささか強引に過ぎ、神様のお気に召さなかったのだろう。
クリシュナムルティは、神智学教団であった星の教団の世界教師という位置づけだったのだが、「真理は道なき領域であり、諸君はいかなる道、いかなる宗教、いかなる宗派によってもそれに至ることはできない。」という宣言を出して、勝手に世界教師を降りてしまった。
これによって星の教団という組織宗教の教祖が主導して20世紀における組織宗教の最終形を作り出すという狙いと並行して弥勒を再臨させるという構想も烏有に帰した。
結局、この時代には、このような霊がかり排除の流れが吹き荒れ、同時代の出口王仁三郎も神の憑依による帰神タイプの悟りへのメソッドは教団として放棄した。
クリシュナムルティは、このような宣言を出して後も、自身は只管打坐型の悟り(身心脱落)を説いているにもかかわらず、冥想手法としての只管打坐を説かなかったために、メインの布教対象であった西洋人にあまり理解されることはなかった。
それを失敗とみて、ダンテス・ダイジが「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」を世に問うて、真理にいたる手法として様々な冥想法があることを示した。
クリシュナムルティは、境地を示し、霊がかりを排し、ダンテス・ダイジは冥想手法を示した。後は各人が坐るだけである。
クリシュナムルティは、1986年没。ダンテス・ダイジは、1987年没。今年で没後35年以上にもなる。彼らと面識のあった人ももう70代、60代。
時代はようやく、国家意識のない宗教の問題を浮かび上がらせようとしている。人は肉体と精神でできているが、肉体とは国家に照応し、精神は宗教に照応する。世界宗教とは、仏教、キリスト教、ユダヤ教や国際カルトなどということになるが、国家そのものが戦場になったり、放射能汚染や疫病などで人口が激減したり、生まれ育った国で生活できなくなるのはまずいという考え方が出てこないと国家意識のない宗教は問題だという風には考えないのだろうと思う。
それこそ世界が核戦争や大三災に見舞われた後の反省として出てくる見方なのだろうと思う。
つまり世界宗教そのものは悟りに到るメソッドを有しているのではあるが、現代はあまりにも悟りに到る人が少なすぎる。つまり世界宗教の信者になるのはよいがそれでは十分でなく、信者全員が悟りを開けないのでは、時代に追いついていないところが問題なのである。また一方で万人が悟るには万人が安定して生活ができることも、実は重要な要素なのである。明日のことを思い煩わないのは、修行者の基本姿勢ではあるが、それは、何十万人に一人覚者を出せばよい時代の話。
万人が悟るためには、万人が食べられる環境が必要なのである。その辺、歴史的に食うや食わずの人が大勢だった中国には、結局宗教がほとんど根付かなかったことが典型例としてあるように思う。
その辺が国家意識のない宗教が問題とされていく所以。
万人が悟ることが時代に要請されているが、その切迫感を感じている人はあまりにも少ないのが問題である。
そこで時代は、神なき方向にさらにどんどん振れて行っている。
コロナの世界的蔓延、
ウクライナへのロシア侵攻と核使用の恫喝
安倍元首相暗殺
中国の香港取り込みと台湾包囲侵攻訓練
大変動は先に各人の無意識に起こって、やがて現実として実現していく。無意識とは霊界とも呼ばれる。だが精確に無意識の未来の世界を見れる人はそう多いものではない。
最近は本屋でクリシュナムルティ本を見かけることも少なくなった。クリシュナムルティを囲む一団を神智学徒と呼ぶが、かの今東光の父親が、日本で最初期の神智学徒であったことは知らなかった。
クリシュナムルティは、リードビーターなどによってインドで発見され、マイトレーヤ=ミロク菩薩の乗り物として自分の肉体を明け渡すということを予定されていた。つまりクリシュナムルティには彼固有の微細身がありながら、ミロク菩薩の微細身を同居させるという実験台にさせられようとした。
一つの肉体に複数の霊(微細身)というのは、その後いろいろな話を読んできた中であり得るとは思っている。だが一つの肉体に複数の霊という形式で弥勒出生、弥勒再誕を現実化させようというのは、大胆ではあるがいささか強引に過ぎ、神様のお気に召さなかったのだろう。
クリシュナムルティは、神智学教団であった星の教団の世界教師という位置づけだったのだが、「真理は道なき領域であり、諸君はいかなる道、いかなる宗教、いかなる宗派によってもそれに至ることはできない。」という宣言を出して、勝手に世界教師を降りてしまった。
これによって星の教団という組織宗教の教祖が主導して20世紀における組織宗教の最終形を作り出すという狙いと並行して弥勒を再臨させるという構想も烏有に帰した。
結局、この時代には、このような霊がかり排除の流れが吹き荒れ、同時代の出口王仁三郎も神の憑依による帰神タイプの悟りへのメソッドは教団として放棄した。
クリシュナムルティは、このような宣言を出して後も、自身は只管打坐型の悟り(身心脱落)を説いているにもかかわらず、冥想手法としての只管打坐を説かなかったために、メインの布教対象であった西洋人にあまり理解されることはなかった。
それを失敗とみて、ダンテス・ダイジが「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」を世に問うて、真理にいたる手法として様々な冥想法があることを示した。
クリシュナムルティは、境地を示し、霊がかりを排し、ダンテス・ダイジは冥想手法を示した。後は各人が坐るだけである。
クリシュナムルティは、1986年没。ダンテス・ダイジは、1987年没。今年で没後35年以上にもなる。彼らと面識のあった人ももう70代、60代。
時代はようやく、国家意識のない宗教の問題を浮かび上がらせようとしている。人は肉体と精神でできているが、肉体とは国家に照応し、精神は宗教に照応する。世界宗教とは、仏教、キリスト教、ユダヤ教や国際カルトなどということになるが、国家そのものが戦場になったり、放射能汚染や疫病などで人口が激減したり、生まれ育った国で生活できなくなるのはまずいという考え方が出てこないと国家意識のない宗教は問題だという風には考えないのだろうと思う。
それこそ世界が核戦争や大三災に見舞われた後の反省として出てくる見方なのだろうと思う。
つまり世界宗教そのものは悟りに到るメソッドを有しているのではあるが、現代はあまりにも悟りに到る人が少なすぎる。つまり世界宗教の信者になるのはよいがそれでは十分でなく、信者全員が悟りを開けないのでは、時代に追いついていないところが問題なのである。また一方で万人が悟るには万人が安定して生活ができることも、実は重要な要素なのである。明日のことを思い煩わないのは、修行者の基本姿勢ではあるが、それは、何十万人に一人覚者を出せばよい時代の話。
万人が悟るためには、万人が食べられる環境が必要なのである。その辺、歴史的に食うや食わずの人が大勢だった中国には、結局宗教がほとんど根付かなかったことが典型例としてあるように思う。
その辺が国家意識のない宗教が問題とされていく所以。
万人が悟ることが時代に要請されているが、その切迫感を感じている人はあまりにも少ないのが問題である。
そこで時代は、神なき方向にさらにどんどん振れて行っている。
コロナの世界的蔓延、
ウクライナへのロシア侵攻と核使用の恫喝
安倍元首相暗殺
中国の香港取り込みと台湾包囲侵攻訓練
大変動は先に各人の無意識に起こって、やがて現実として実現していく。無意識とは霊界とも呼ばれる。だが精確に無意識の未来の世界を見れる人はそう多いものではない。