◎静坐、マインドフルネスなど
各宗派で様々な坐法がある。坐法とは、ポスチャー・坐る姿勢だけでなくて、坐る時刻、時間、坐る場所、柔軟体操、呼吸法、どうトランスに入っていくか、三昧に入っていくか、浮かんでくる想念の取り扱い方、坐が終了してからの作法など様々な要素がある。
「きくち体操」のような体操でも意識の持って行き方、顔の向け方、観想法(指がまっすぐになりますように、など)をちょこっと入れたり、マスターに適切なポイントでアドバイスを受けないとわからないところがある。いわんや坐法では、イラストあるいは動画と文章の説明があったとしても、わからない部分は残るのだ。
事程左様に坐法については、文章、動画、イラストでまともに説明されているのは、只管打坐がほとんどであり、密教・道教・クンダリーニ・ヨーガ系の坐法については、ほとんどちゃんとした説明がないのはお気づきのとおりである。
その理由は、密教・道教・クンダリーニ・ヨーガ系の坐法の説明はあるが、我流で、あるいは悟っていない師について坐った場合、精神に異常を来したり、発狂の危険、死の危険があるからだと思う。
悟りとはポジティブなものだが、相当に正しい指導を受け、まともな大悟覚醒した人物であってすら、数年の聖胎長養が必要ということは、大悟覚醒によって起こる自分の生きている世界観の逆転と社会性の不適合、絶対的な孤独など人間個人として消化すべき重いテーマが相当数あるということなのだろうと思う。
特に密教・道教・クンダリーニ・ヨーガ系の坐法は、正しい師匠がいない場合は、やめておいた方が身のためなのだろう。只管打坐だって、普勧坐禅儀があるといっても、書かれていない部分は師のアドバイスが必要。
マインドフルネスは、効果を求める坐法だから本来まずいと言えばまずいのではあるが、効果を求める坐法だから逆に危険がないかと言えば、そうとも言えないのではないか。およそ人間の潜在意識をコントロールする手法は、それなりのリスクを伴うものなのではないだろうか。
各宗派で様々な坐法がある。坐法とは、ポスチャー・坐る姿勢だけでなくて、坐る時刻、時間、坐る場所、柔軟体操、呼吸法、どうトランスに入っていくか、三昧に入っていくか、浮かんでくる想念の取り扱い方、坐が終了してからの作法など様々な要素がある。
「きくち体操」のような体操でも意識の持って行き方、顔の向け方、観想法(指がまっすぐになりますように、など)をちょこっと入れたり、マスターに適切なポイントでアドバイスを受けないとわからないところがある。いわんや坐法では、イラストあるいは動画と文章の説明があったとしても、わからない部分は残るのだ。
事程左様に坐法については、文章、動画、イラストでまともに説明されているのは、只管打坐がほとんどであり、密教・道教・クンダリーニ・ヨーガ系の坐法については、ほとんどちゃんとした説明がないのはお気づきのとおりである。
その理由は、密教・道教・クンダリーニ・ヨーガ系の坐法の説明はあるが、我流で、あるいは悟っていない師について坐った場合、精神に異常を来したり、発狂の危険、死の危険があるからだと思う。
悟りとはポジティブなものだが、相当に正しい指導を受け、まともな大悟覚醒した人物であってすら、数年の聖胎長養が必要ということは、大悟覚醒によって起こる自分の生きている世界観の逆転と社会性の不適合、絶対的な孤独など人間個人として消化すべき重いテーマが相当数あるということなのだろうと思う。
特に密教・道教・クンダリーニ・ヨーガ系の坐法は、正しい師匠がいない場合は、やめておいた方が身のためなのだろう。只管打坐だって、普勧坐禅儀があるといっても、書かれていない部分は師のアドバイスが必要。
マインドフルネスは、効果を求める坐法だから本来まずいと言えばまずいのではあるが、効果を求める坐法だから逆に危険がないかと言えば、そうとも言えないのではないか。およそ人間の潜在意識をコントロールする手法は、それなりのリスクを伴うものなのではないだろうか。