◎すべての流れとして俺がここにある
1987年多摩でのダンテス・ダイジと弟子との会話から
『弟子「冥想をね、ずーっと長時間続けていても、あれは構わないの?」
ダンテス・ダイジ「うん構わない。時間に関係ないね。でも一般に言えば具体的な技術的な問題で言えば、それは長い方が勝ちだからね。」
弟子「ダイジはどれくらい?」
ダンテス・ダイジ「冥想の時間は、朝晩30分だろうね。ひとつには。そして俺の場合には、最初、座るでしょ。で最初に、ニルバーナそのものに自分が還るわけ。還った後、次に無相三昧の段階に入る。で、有相三昧から、今度一つ一つの、えーと生命っていうのか、成り行きっていうのを見る世界まで下りてきて、それから、俺の個性っていうものの使命が下りてきて、そこで出る。
俺がそのまま、すべての流れとして俺がここにあるっていう、その姿そのものを俺は生きればいい。」
弟子「自然にこうにじみ出てくるっていうやつ」
ダンテス・ダイジ「うん、自然ににじみ出るっていうより、たとえば、鳥が空を飛んでるでしょ。で、魚が海を泳いでる。海は、寄せては返す。寄せては返す。太陽は東から昇り、西に沈む。俺も寄せては返す、寄せては返す、俺の中に海があり、魚が泳ぐ。そして魚となって俺は泳ぐ。俺は東から太陽になって昇り、西に沈む太陽に俺は一人の人間として(不明)。)」』
ダンテス・ダイジは、冥想の最初にいきなりニルヴァーナに飛び込む。これはチベット死者の書にある「死のプロセス」と同様。そして無相三昧、有相三昧と行き、個性の世界に入って行く。これも「死のプロセス」と同様。
ここは、一座の冥想の中で、全く日常生活とは別の世界に入っているということと、「冥想は体験ではない」と語っている張本人が、毎日の冥想の中で、悟りと言う体験とは言えない体験に何度も戻っていることだ。
覚者は天意を生きるというが、「すべての流れとして俺がここにある」が天意を生きるということ。
月並みな言い方だが、これをして常人ではないというのだと思う。
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1987年多摩でのダンテス・ダイジと弟子との会話から
『弟子「冥想をね、ずーっと長時間続けていても、あれは構わないの?」
ダンテス・ダイジ「うん構わない。時間に関係ないね。でも一般に言えば具体的な技術的な問題で言えば、それは長い方が勝ちだからね。」
弟子「ダイジはどれくらい?」
ダンテス・ダイジ「冥想の時間は、朝晩30分だろうね。ひとつには。そして俺の場合には、最初、座るでしょ。で最初に、ニルバーナそのものに自分が還るわけ。還った後、次に無相三昧の段階に入る。で、有相三昧から、今度一つ一つの、えーと生命っていうのか、成り行きっていうのを見る世界まで下りてきて、それから、俺の個性っていうものの使命が下りてきて、そこで出る。
俺がそのまま、すべての流れとして俺がここにあるっていう、その姿そのものを俺は生きればいい。」
弟子「自然にこうにじみ出てくるっていうやつ」
ダンテス・ダイジ「うん、自然ににじみ出るっていうより、たとえば、鳥が空を飛んでるでしょ。で、魚が海を泳いでる。海は、寄せては返す。寄せては返す。太陽は東から昇り、西に沈む。俺も寄せては返す、寄せては返す、俺の中に海があり、魚が泳ぐ。そして魚となって俺は泳ぐ。俺は東から太陽になって昇り、西に沈む太陽に俺は一人の人間として(不明)。)」』
ダンテス・ダイジは、冥想の最初にいきなりニルヴァーナに飛び込む。これはチベット死者の書にある「死のプロセス」と同様。そして無相三昧、有相三昧と行き、個性の世界に入って行く。これも「死のプロセス」と同様。
ここは、一座の冥想の中で、全く日常生活とは別の世界に入っているということと、「冥想は体験ではない」と語っている張本人が、毎日の冥想の中で、悟りと言う体験とは言えない体験に何度も戻っていることだ。
覚者は天意を生きるというが、「すべての流れとして俺がここにある」が天意を生きるということ。
月並みな言い方だが、これをして常人ではないというのだと思う。

