◎ニルヴァーナを霊能力者が見立てる
荘子の応帝王篇から。
『鄭の国に季咸というシャーマンがいた。このシャーマンは極めて有能であって、人の死生存亡、禍福、長命短命をことごとく予言し、的中せしめた。
ある日列子が、このシャーマンに会って、とても興奮して師匠の壺子にそのことを語った。すると壺子は、お前は修行中の身でまだ真実を得ていないが、面白そうだからシャーマンをここに連れてきなさいと命じた。
翌日3人が顔を合わせたところ、季咸は、列子に、「湿った灰が見えます。あなたの先生の壺子は、10日以内に死ぬでしょう。」と予言した。
列子は、この悲劇的内容を涙で襟を濡らしながら壺子に告げると、壺子は、「なあに、わたしは、徳が塞がれる機(杜徳機)つまり地文という生命は内に含むが動くでも止まるでもないふうを見せただけだ。もう一度連れてきてみなさい」と。
翌日また3人で会った。今度は季咸は列子に、「生命の芽生えが見えます。あなたの先生は、すっかり元気になるでしょう。」と語った。
これを聞いた壺子は、「なあに、わたしはあいつに天地を見せてやっただけだ。生命の機(善者機)が踵から出ている様子をな。また連れてきてみなさい。」と解説した。
翌日また3人で会った。三度目は季咸は列子に、「あなたの先生は斎戒しないので占えません。斎戒してからまた占いましょう」と言うので、列子は壺子に斎戒を頼んだ。
すると壺子は、「わたしは、さっきは太沖莫勝を見せてやったのだ。」
更に三人はもう一度会うが、季咸はその回では、壺子から何も感じることができずに逃げ出した。
この事件を機に列子は三年間家を出ず、修行に真剣に打ち込むことになった。その間、妻の代りに飯をたき、豚に人間と同じ食物を与えるというあらゆる先入観から離れた生活を行ったという。
さて太沖とは大いなる空虚のこと。そして莫勝とは、勝(まさ)るものなし、だから太沖莫勝とは至上の空虚のことであって、相応するものとしては、ニルヴァーナがそれに当たるように思う。
太沖については、この件の霊能力者が見極められなかったというだけでは、説明が不足しているように思う。
さて淮南子の詮言訓。
ここでいう君子は、菩薩くらいの人。つまり悟った人だが、十牛図第三図程度のイメージか。
『君子は善行を行っても、幸福が必ず来るようにできるものではない。また悪行を行わなくとも、不幸が来ないようにしむけることもできない。
幸福がやって来ても求めてそうなったのではないから、それを自慢してはならず、不幸(禍)がやってきても、その原因を作ったわけではないから、その行動を後悔しない。
内面の修行が完成しても、不意の災禍がふりかかるのは、みな天がそうするのであって、人間のしわざではない。
故に心中が常に平静であって、その徳を損なわなければ、犬が吠えても驚かず、自分の本性(情)を信じる。
故に道を知る者は惑うことなく、(自分の)天命を知る者は憂うことがない。
万乗の君主は亡くなればその遺骸を広野に葬るが、その魂魄は明堂の中に祀る。このように精神は、肉体・物質(形)より尊い。故に精神が優位となれば肉体・物質はそれに従い、肉体・物質が優位となれば精神は窮迫する。
肉体・物質など外的なものについて聡明に立ち回っても、必ず最後は精神に戻ってくる。
これを太沖という。』
その核心は犬が吠えても驚かないという程度のものかと思われるかもしれないが、ここでは積善と禍福を引き合いに出して、自分は善行しか行わず悪事をしないが、そんな自分に何がふりかかろうがそんなことは自分が知ったことではないというのが基本的な態度であることを説明している。
これは高度に私欲を捨て去った生き方であって、なかなかできることではない。犬に吠えられてもビックリしない所に話の力点があるわけではない。
換言すれば、たとえばある不幸な出来事があったとして、前世がこうなったから、それが原因で現世ではこうなっているなどという説明に関心を持つことは、百害あるのみ。そういう興味の持ち方はやめなさいと言っているのである。
そういう興味の持ち方を霊がかり的と呼び、お勧めしていない。
そしてあらゆる人間的営為は、最後には精神的なものに立ち戻る。その根源を太沖という。太沖とは、精神の側の最も深遠なるセントラル・ポイントということになるだろう。
【チャクラと七つの身体-378】
◎ニルヴァーナ-6
3.道教・儒教-1 ◎太沖
(ザ・ジャンプ・アウト432)
荘子の応帝王篇から。
『鄭の国に季咸というシャーマンがいた。このシャーマンは極めて有能であって、人の死生存亡、禍福、長命短命をことごとく予言し、的中せしめた。
ある日列子が、このシャーマンに会って、とても興奮して師匠の壺子にそのことを語った。すると壺子は、お前は修行中の身でまだ真実を得ていないが、面白そうだからシャーマンをここに連れてきなさいと命じた。
翌日3人が顔を合わせたところ、季咸は、列子に、「湿った灰が見えます。あなたの先生の壺子は、10日以内に死ぬでしょう。」と予言した。
列子は、この悲劇的内容を涙で襟を濡らしながら壺子に告げると、壺子は、「なあに、わたしは、徳が塞がれる機(杜徳機)つまり地文という生命は内に含むが動くでも止まるでもないふうを見せただけだ。もう一度連れてきてみなさい」と。
翌日また3人で会った。今度は季咸は列子に、「生命の芽生えが見えます。あなたの先生は、すっかり元気になるでしょう。」と語った。
これを聞いた壺子は、「なあに、わたしはあいつに天地を見せてやっただけだ。生命の機(善者機)が踵から出ている様子をな。また連れてきてみなさい。」と解説した。
翌日また3人で会った。三度目は季咸は列子に、「あなたの先生は斎戒しないので占えません。斎戒してからまた占いましょう」と言うので、列子は壺子に斎戒を頼んだ。
すると壺子は、「わたしは、さっきは太沖莫勝を見せてやったのだ。」
更に三人はもう一度会うが、季咸はその回では、壺子から何も感じることができずに逃げ出した。
この事件を機に列子は三年間家を出ず、修行に真剣に打ち込むことになった。その間、妻の代りに飯をたき、豚に人間と同じ食物を与えるというあらゆる先入観から離れた生活を行ったという。
さて太沖とは大いなる空虚のこと。そして莫勝とは、勝(まさ)るものなし、だから太沖莫勝とは至上の空虚のことであって、相応するものとしては、ニルヴァーナがそれに当たるように思う。
太沖については、この件の霊能力者が見極められなかったというだけでは、説明が不足しているように思う。
さて淮南子の詮言訓。
ここでいう君子は、菩薩くらいの人。つまり悟った人だが、十牛図第三図程度のイメージか。
『君子は善行を行っても、幸福が必ず来るようにできるものではない。また悪行を行わなくとも、不幸が来ないようにしむけることもできない。
幸福がやって来ても求めてそうなったのではないから、それを自慢してはならず、不幸(禍)がやってきても、その原因を作ったわけではないから、その行動を後悔しない。
内面の修行が完成しても、不意の災禍がふりかかるのは、みな天がそうするのであって、人間のしわざではない。
故に心中が常に平静であって、その徳を損なわなければ、犬が吠えても驚かず、自分の本性(情)を信じる。
故に道を知る者は惑うことなく、(自分の)天命を知る者は憂うことがない。
万乗の君主は亡くなればその遺骸を広野に葬るが、その魂魄は明堂の中に祀る。このように精神は、肉体・物質(形)より尊い。故に精神が優位となれば肉体・物質はそれに従い、肉体・物質が優位となれば精神は窮迫する。
肉体・物質など外的なものについて聡明に立ち回っても、必ず最後は精神に戻ってくる。
これを太沖という。』
その核心は犬が吠えても驚かないという程度のものかと思われるかもしれないが、ここでは積善と禍福を引き合いに出して、自分は善行しか行わず悪事をしないが、そんな自分に何がふりかかろうがそんなことは自分が知ったことではないというのが基本的な態度であることを説明している。
これは高度に私欲を捨て去った生き方であって、なかなかできることではない。犬に吠えられてもビックリしない所に話の力点があるわけではない。
換言すれば、たとえばある不幸な出来事があったとして、前世がこうなったから、それが原因で現世ではこうなっているなどという説明に関心を持つことは、百害あるのみ。そういう興味の持ち方はやめなさいと言っているのである。
そういう興味の持ち方を霊がかり的と呼び、お勧めしていない。
そしてあらゆる人間的営為は、最後には精神的なものに立ち戻る。その根源を太沖という。太沖とは、精神の側の最も深遠なるセントラル・ポイントということになるだろう。
【チャクラと七つの身体-378】
◎ニルヴァーナ-6
3.道教・儒教-1 ◎太沖
(ザ・ジャンプ・アウト432)