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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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玄のまた玄は衆妙の門なり

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◎老子 第1章 道可道

『本当の道は不変固定の道ではない。本当の名は、道の現れであり、不変固定ではなく、刻々と変じているものである。

無は天地剖判以前のものを無と言い、有は物質、時間、空間の現象界である。ゆえに無はその造化の妙を見せるし、有はその現象界の終わりを現わそうとする。

無と有は一見して違ったもののように見えるが、実は同じであり、その働きにより呼び名が異なっているだけである。この働きは同じく玄という。この玄なる無有の働きは、すべての働きの出て来る門である。』

【訓読
道の道たるべきは、常(かわ)らざるの道に非ず、名の名たるべきは、常(かわ)らざるの名に非ず、
無は天地の始めに名付け、有は万物の母に名付く。ゆえに常に無は以てその妙を見んと欲し、常に有はその徼を観んと欲す。
この両者同じ、出でて而かして名を異にす、同じくこれを玄と謂う。玄のまた玄は衆妙の門なり。】

モクシャ(解脱)を体験した者の言なり。無も有も高みから眺める立場はニルヴァーナ以外にはない。ただし、無はニルヴァーナの側であり、有なる万物の母は、アートマン。その上で、無も有も玄妙であり、そのはたらきという名だけが違っているというのは、生の世界も死の世界も、そのからくりを見切って初めて言えることである。

【チャクラと七つの身体-380】
◎ニルヴァーナ-8
3.道教・儒教-3 ◎玄のまた玄は衆妙の門なり
(ザ・ジャンプ・アウト434)

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