◎超人ダンテス(又はダンティス)の伝説
ダンテス・ダイジ自身の手による未公刊の断簡「超人ダンテス(又はダンティス)の伝説」に彼のニルヴァーナの見方が書かれてある。
『超人ダンテス(又はダンティス)の伝説
一般的な歴史の中でダンテスの名を発見する事はむずかしい。もしあなたがあらゆる宗教神秘主義的伝説への妄従者であり、その表に現れた密教的規律に従う事をもって、満足する人であるならば、ダンティスのアトランティス以来、現代に至るまでの間にいたる所にちりばめられたダンティスの暗示を読み取る事はできないであろう。
なぜなら、ダンティスのアトランティス密教の高度な道術は、アトランティスの黄金時代を別にすれば、ダンティスの教育的使命にはならなかったからである。
例えば、ヘルメス・トートメの秘教的奥義に決定的影響を与えたアトランティスの聖王トオスは、明らかに導師(グル)としてその立場を規定できるものであったがダンティスは常にその様な規定の枠外にあった。
ダンティスはそのニルバーナの究極的解放において全体性の観照者でありえた事はもちろんであるが、彼は、そこにとどまる者としてではなく、むしろ、ニルバーナの化身であり、全体性の至上の天国と極悪の地獄を自由自在に戯れるものとして生きた。
無限生命の絶頂を完全な解放を意味するニルヴァーナというサンスクリット語はアトランティス当時の正確な発音ではニーバーナとしたほうが良いであろう。
ニーバーナとは、ニーが無、バーナが有を表し、これはアメンと同じ意味の真言(言霊)であった。
無 有 (タオイズム、禅仏教)
ニー バーナ (主にインド・ウィグル)
メン ア (主に古代エジプト・アトランティス)
メン アー (キリスト教)
ム オー (サンスクリットのマントラ・オーム)
ウン ア (真言密教)
カ ミ (日本古神道)
ダンティスの生涯には、超越界を、自分の住所とし続けているいわゆる、聖者的な姿というものを、見いだす事は、できない。
彼は時に、多くのアトランティス並びにエジプトの人々にとって、そして、とりわけ、選ばれたごく少数の者に対しては、まぎれもなく、絶対無の内に宇宙を手玉に取って見せる事もできる人物であった。確かに彼は、人間という者が宇宙の内でどの様に戯れたら良いかを、ごく少数の弟子に伝えている。
もしあなたが独自の観察眼を、神秘学の歴史にむける事のできる密教学徒あるいは、完全にあたりまえな人間であれば、古代エジプトのヘルメス秘教の中に、エメラルド・タブレット、沈黙の声の中に、古神道の野立彦の神示の中に、ヴェーダやウパニシャッド文献の中に、さらには、オカルティックな奇説、例えば、悪名高き魔術師、アリエスタ・クローリーの若く純粋であった当時の著作の中に、さらには、ファンタジー作家のインスピレーションによる書物の中にさえ、ダンテスの名前やその足跡を発見できるかも知れない。
なぜなら、ダンテスとは、あなたの魂の暗闇の中に秘められている完璧な愛自身のことにほかならないからである。』
ニルヴァーナは、善も悪も超えた、有も無も超えた絶対であるが、そのニルヴァーナなる言葉自体がそもそも二面性を含むことを多くの正統的宗教の主たる用語において解き明かしている。古神道のカミという言葉すらも。
天国や極楽、浄土に入るということは間違いなく人間にとってまともな方向性であり必要なことである。しかしそれだけでは、ダンテス・ダイジの語る「天国と地獄を超えて」や「天国と地獄の結婚」については知的理解すらもできない。
また「人の個的自我は、固定概念や抑圧を受けることにより発達していく」というのも紛れもない事実であるから、一足飛びに「あらゆるくびきからの解放」を主張することが万人に受け入れられるものでもない。
個的自我を持って天国に入ることと、個的自我を棄てて天国も地獄も超えることは、全く違うことである。ところが、その後者の方は、現代社会の一般人にとって想像もつかないことかもしれないが、いまやそれがほとんどの日本人の人生にとっての最終課題になっている。
このように何の前提条件も詳細説明もなく、「個的自我を棄てて天国も地獄も超える」ことが自明とされる文章は、様々な誤解が生まれやすいことに注意して読むべきだろう。
ダンテス・ダイジ自身の手による未公刊の断簡「超人ダンテス(又はダンティス)の伝説」に彼のニルヴァーナの見方が書かれてある。
『超人ダンテス(又はダンティス)の伝説
一般的な歴史の中でダンテスの名を発見する事はむずかしい。もしあなたがあらゆる宗教神秘主義的伝説への妄従者であり、その表に現れた密教的規律に従う事をもって、満足する人であるならば、ダンティスのアトランティス以来、現代に至るまでの間にいたる所にちりばめられたダンティスの暗示を読み取る事はできないであろう。
なぜなら、ダンティスのアトランティス密教の高度な道術は、アトランティスの黄金時代を別にすれば、ダンティスの教育的使命にはならなかったからである。
例えば、ヘルメス・トートメの秘教的奥義に決定的影響を与えたアトランティスの聖王トオスは、明らかに導師(グル)としてその立場を規定できるものであったがダンティスは常にその様な規定の枠外にあった。
ダンティスはそのニルバーナの究極的解放において全体性の観照者でありえた事はもちろんであるが、彼は、そこにとどまる者としてではなく、むしろ、ニルバーナの化身であり、全体性の至上の天国と極悪の地獄を自由自在に戯れるものとして生きた。
無限生命の絶頂を完全な解放を意味するニルヴァーナというサンスクリット語はアトランティス当時の正確な発音ではニーバーナとしたほうが良いであろう。
ニーバーナとは、ニーが無、バーナが有を表し、これはアメンと同じ意味の真言(言霊)であった。
無 有 (タオイズム、禅仏教)
ニー バーナ (主にインド・ウィグル)
メン ア (主に古代エジプト・アトランティス)
メン アー (キリスト教)
ム オー (サンスクリットのマントラ・オーム)
ウン ア (真言密教)
カ ミ (日本古神道)
ダンティスの生涯には、超越界を、自分の住所とし続けているいわゆる、聖者的な姿というものを、見いだす事は、できない。
彼は時に、多くのアトランティス並びにエジプトの人々にとって、そして、とりわけ、選ばれたごく少数の者に対しては、まぎれもなく、絶対無の内に宇宙を手玉に取って見せる事もできる人物であった。確かに彼は、人間という者が宇宙の内でどの様に戯れたら良いかを、ごく少数の弟子に伝えている。
もしあなたが独自の観察眼を、神秘学の歴史にむける事のできる密教学徒あるいは、完全にあたりまえな人間であれば、古代エジプトのヘルメス秘教の中に、エメラルド・タブレット、沈黙の声の中に、古神道の野立彦の神示の中に、ヴェーダやウパニシャッド文献の中に、さらには、オカルティックな奇説、例えば、悪名高き魔術師、アリエスタ・クローリーの若く純粋であった当時の著作の中に、さらには、ファンタジー作家のインスピレーションによる書物の中にさえ、ダンテスの名前やその足跡を発見できるかも知れない。
なぜなら、ダンテスとは、あなたの魂の暗闇の中に秘められている完璧な愛自身のことにほかならないからである。』
ニルヴァーナは、善も悪も超えた、有も無も超えた絶対であるが、そのニルヴァーナなる言葉自体がそもそも二面性を含むことを多くの正統的宗教の主たる用語において解き明かしている。古神道のカミという言葉すらも。
天国や極楽、浄土に入るということは間違いなく人間にとってまともな方向性であり必要なことである。しかしそれだけでは、ダンテス・ダイジの語る「天国と地獄を超えて」や「天国と地獄の結婚」については知的理解すらもできない。
また「人の個的自我は、固定概念や抑圧を受けることにより発達していく」というのも紛れもない事実であるから、一足飛びに「あらゆるくびきからの解放」を主張することが万人に受け入れられるものでもない。
個的自我を持って天国に入ることと、個的自我を棄てて天国も地獄も超えることは、全く違うことである。ところが、その後者の方は、現代社会の一般人にとって想像もつかないことかもしれないが、いまやそれがほとんどの日本人の人生にとっての最終課題になっている。
このように何の前提条件も詳細説明もなく、「個的自我を棄てて天国も地獄も超える」ことが自明とされる文章は、様々な誤解が生まれやすいことに注意して読むべきだろう。