◎マンツーマン輪廻説の否定
世界樹から説き起こした七つの身体論は、輪廻転生の見方で完結する。輪廻転生の見方について、ここでは、OSHOバグワンのそれと、ダンテス・ダイジのそれを挙げる。両者の説は非常に似通っており、私の見るところ、その説明こそが現代人にとって妥当と思われる。それらに加えダライ・ラマの輪廻転生説、最後の審判説、釈迦の見方なども挙げる。
いわゆる神秘生理学あるいは、神秘的世界観を広汎に説き起こすには、例えば古神道の四分類である、幽の幽、幽の顕、顕の幽、顕の顕というのがある。これは、極めて論理的でスッと頭に入ってきやすいが、その実何も理解できていないことになりがちである。
七つの身体と云うダイナミックな世界観が我々人間の生きている現実であることを確証するには、中心太陽に突入するしかないが、それは通例常人の叶うことではないので、その生還者である、OSHOバグワンとダンテス・ダイジの高説を拝聴するしかないだろうと思う。
それぞれが全く異なる七つの次元を人はどのように通行しているのか、それが七つの身体を前提にした輪廻転生ということである。それにすらも自由が与えられていることを釈迦は四禅から涅槃に入ることで示してもいる。
さてOSHOバグワンの輪廻転生論を語るには、その七つの身体論について簡単に振り返る必要がある。
第一身体の肉体から第四身体のコーザル体までは共通。第五と第六が異なる。OSHOバグワンは第五身体をコーザル体とせず、アートマンが第五身体で、ブラフマンが第六身体であるとする。つまり第五身体について、ダンテス・ダイジは個であるコーザル体だが、OSHOバグワンは、個ではないアートマンとしている。これが違いだが、七つの身体トータルとしては、どこから個がなくなるかがずれているだけで、個がとある時点で喪失し全体に切り替わという流れは同じ。
OSHOバグワン説の第五から第六への誕生とは、第五の「われ在る」が第六の「在る」に進むことを云う。
以下の引用文を素直に読んでいくと、いわゆるマンツーマン輪廻説が否定されていることに気がつく。
『第五から第六へは誕生があり、第六から第七へは死がある。だから後者を体験した人は、二度生まれた者とは呼ばれない。それには意味がない。わかるかね?もう簡単に理解できるだろう。
第五から第六へは、自分自身からの誕生があった。第六から第七へは、自分自身を通しての死がある。私たちは他者から―――――他者の体から生まれた。そして、それに続く死も、他者と関わるものだ。この点を説明しよう。
あなたが他者から生まれたのなら、どうして死も、あなただけのものであり得るだろうか?どうして、そんなことがあり得よう?ふたつの端は、関連がなくなってしまう。他者が私に誕生を与えてくれたのなら、死は私のものではあり得ない。他者から誕生がもたらされる時、死もまた、他者からもたらされる。』
(奇跡の探究2/和尚/市民出版社P362-363から引用)
世界樹から説き起こした七つの身体論は、輪廻転生の見方で完結する。輪廻転生の見方について、ここでは、OSHOバグワンのそれと、ダンテス・ダイジのそれを挙げる。両者の説は非常に似通っており、私の見るところ、その説明こそが現代人にとって妥当と思われる。それらに加えダライ・ラマの輪廻転生説、最後の審判説、釈迦の見方なども挙げる。
いわゆる神秘生理学あるいは、神秘的世界観を広汎に説き起こすには、例えば古神道の四分類である、幽の幽、幽の顕、顕の幽、顕の顕というのがある。これは、極めて論理的でスッと頭に入ってきやすいが、その実何も理解できていないことになりがちである。
七つの身体と云うダイナミックな世界観が我々人間の生きている現実であることを確証するには、中心太陽に突入するしかないが、それは通例常人の叶うことではないので、その生還者である、OSHOバグワンとダンテス・ダイジの高説を拝聴するしかないだろうと思う。
それぞれが全く異なる七つの次元を人はどのように通行しているのか、それが七つの身体を前提にした輪廻転生ということである。それにすらも自由が与えられていることを釈迦は四禅から涅槃に入ることで示してもいる。
さてOSHOバグワンの輪廻転生論を語るには、その七つの身体論について簡単に振り返る必要がある。
第一身体の肉体から第四身体のコーザル体までは共通。第五と第六が異なる。OSHOバグワンは第五身体をコーザル体とせず、アートマンが第五身体で、ブラフマンが第六身体であるとする。つまり第五身体について、ダンテス・ダイジは個であるコーザル体だが、OSHOバグワンは、個ではないアートマンとしている。これが違いだが、七つの身体トータルとしては、どこから個がなくなるかがずれているだけで、個がとある時点で喪失し全体に切り替わという流れは同じ。
OSHOバグワン説の第五から第六への誕生とは、第五の「われ在る」が第六の「在る」に進むことを云う。
以下の引用文を素直に読んでいくと、いわゆるマンツーマン輪廻説が否定されていることに気がつく。
『第五から第六へは誕生があり、第六から第七へは死がある。だから後者を体験した人は、二度生まれた者とは呼ばれない。それには意味がない。わかるかね?もう簡単に理解できるだろう。
第五から第六へは、自分自身からの誕生があった。第六から第七へは、自分自身を通しての死がある。私たちは他者から―――――他者の体から生まれた。そして、それに続く死も、他者と関わるものだ。この点を説明しよう。
あなたが他者から生まれたのなら、どうして死も、あなただけのものであり得るだろうか?どうして、そんなことがあり得よう?ふたつの端は、関連がなくなってしまう。他者が私に誕生を与えてくれたのなら、死は私のものではあり得ない。他者から誕生がもたらされる時、死もまた、他者からもたらされる。』
(奇跡の探究2/和尚/市民出版社P362-363から引用)