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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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無門関とアートマン

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◎無門関第16則

無門関第16則から。この公案はわかりやすいとされているそうだが・・・・・。
雲門和尚が、「世界はこんなに広くかつ大きい。(その自由な世界にあって)合図の鐘が鳴ったといってなぜ七条の袈裟を着けてのこのこと出て行かねばならぬのか」と言った。

そこで無門はそれを批評していう、
およそ禅を学ばんとする者は、本質の表われである音声や色相(かたち) についてまわることをいちばん忌み嫌うのである。たとい香厳和尚のごとくに竹に当った小石の音を聞いて悟ったとか霊雲和尚のごとくに桃の花の開くのを見て心性を悟ったということがあったとしても、すべてあたりまえのことである。禅道修行の僧たるものは音声や色相を使いこなして、あらゆる事物の一々について、真実を見きわめ一手一手に不思議な動きのあることを見落してはいけないのである。しかしそうはいっても、諸君は思ってみるがよい。

音が耳にやってきて音が聞えるのか。耳が音の方に飛んでいって音となるのか。たとい音響も静寂も忘却するという境地になったとしても、そこのところを何と説明したものであろう。こういうところは、もし耳で音を聞くというのであればまったく理解し難いであろう。むしろ眼で音声を聞くくらいの器量があって、はじめてピタリとくるであろう。

さらに頌にうたっていう、
悟ってみれば、ものごとはすべて同じ身内(みうち)の事柄だが、
悟らないときは、一切がばらばらである。
悟らなければ、ものごとはすべて同じ身内の事柄に見えるが
悟ってみれば、一々すべてがそれぞれの個性を有(も)っている。』
(禅家語録2/平田精耕/筑摩書房P378-379から引用)

この中の頌の部分の前半は、悟ったら世界はアートマンなる一なるもの。よってそれ以前の世界は、ばらばらにある。
一方頌の部分の後半は、大悟する以前は、その実感を伴うことなく、「一切万象は、すべてアートマンの展開だ」などと想像を膨らましているのだけれど、いざ実際に悟ってみると、一つ一つの動物、植物、無生物がそれぞれに個性を有しているという不思議が実感としてわかる。





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